毎日のように写真を撮っていると、太陽の位置や光線の変化がよくわかる。(哲




2009N214句(前日までの二句を含む)

February 1422009

 一人づつきて千人の受験生

                           今瀬剛一

句に数字を使う時、ともすれば象徴的になる。特に「千」は、先ごろ流行った歌の影響もあってか、以前よりよく見かける気がするし、つい自分でも使ってしまう。ようするに、とても多いという意味合いだ。しかしこの句の千人は、リアリティのある千人。象徴的な側面もあるだろうけれど、まさに、見ず知らずの一人ずつが千人集まるのが受験生だ。しかも、同じ目的を持ちながら全員がライバル、というより敵である。そしてそれぞれ、千人千色の日々と道のりを背負っている。一と千、二つの数字を本来の意味で使い、省略を効かせて受験生の本質を詠んだ句と思うが、さらにひらがな表記の、きて、がそれらをつないで巧みである。二月も半ば、中学入試が一段落して、これから高校、大学と受験シーズン真っ只中。この季節は、一浪しても第一志望校に拒絶されたことと共に、あれこれ思い出され、幾つになってもほろ苦い。当時は、全人格を否定されたような気持ちになったが、まあ今となれば、生きていればいいこともあるなと思える。街に溢れるバレンタインのハートマークを横目に、日々戦う受験生に幸多かれ。『俳句歳時記 第四版 春』(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


February 1322009

 着ぶくれ出勤の群集 の中で 岬のこと

                           澤 好摩

丹三樹彦さん提唱の「分かち書き」は一行表記の中の切れを作者の側から設定すること。そんなアキを作らずとも、切れ字が用いられている場合はもちろんのこと、意味の上で考えれば切れの箇所は明らかという考え方もあろうが、それは旧文法使用の場合。ときに定型音律を逸脱する現代語使用を標榜する運動を思えば分かち書きという方法も理解できる。しかし、現代語においても切れが明らかな箇所に一字アキを用いれば分かち書きの必然性が薄れる。空けなくたって切れるのは一目瞭然ということになる。この句のように「群集」から「の」につづくまでに一拍置けと指示されると、群集の渦の中に身をまかせて入った作者が「自分」に気づくまでの間合いがよくわかる。分かち書きの効果が発揮されていて作者から読者への要請が無理なく嫌味なく伝わるのである。個の在り方がナマの思念のまま出ている作品である。『澤好摩句集』(2009)所収。(今井 聖)


February 1222009

 名前からちょっとずらして布団敷く

                           倉本朝世

く布団に小学校のころ使ったノートの細長い空欄を思った。試験用紙もそうだけど、何度あの欄に名前を書き入れたことか。名前はほかでもない私の証。だけど、名前で呼ばれる私と内側に抱える自分とのずれは誰もが感じていることだろう。その名前から少しずらして敷く布団は季語としての布団じゃなくて、毎朝毎晩押入れから出し入れして敷く生活用品としての布団だろう。その布団にくるまれて眠るのは名前で呼ばれる昼間の私をはずれて夢の世界に入ること。「名前」と「布団」違う次元にあるようでどこか近いものを並べて日常に隠された違和感をするする引き出してくるのが川柳の面白さ。「煮えたぎる鍋 方法は二つある」なども、方法という言葉を置くと台所の鍋がこんなにも怖いものになるのかと、言葉の力を感じさせる句である。『なつかしい呪文』(2008)所収。(三宅やよい)




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