2009N219句(前日までの二句を含む)

February 1922009

 スペインで暮らす哀しみ牡丹雪

                           小西昭夫

本にしか暮らしたことがないので、言葉も習慣も違う国で暮らす哀しみは想像するしかない。とはいえ生まれ育ったのが神戸だったので子供のころ外国へ移住する人々を乗せた客船を見送ったことはある。色とりどりの紙テープをひきずって巨船がゆっくり波止場を離れてゆくのに合わせ蛍の光が流れていた。あれから半世紀近く経つが、船のデッキから身を乗り出して手を振っていた人々はどうしているのだろう。外国で年を重ねるごとに望郷の念は強くならないのだろうか。白いご飯や、ごみごみした路地、湿った空気が恋しくはならないだろうか。異国でも雪は降るだろうが、薄明るい空から軒先にひらひら降りてくる大きな雪を見て、「ああ、牡丹雪だねぇ、春が近いねぇ」と頷き合う相手がいてこその言葉の満足。そう考えるとこの句の「哀しみ」はスペインでなくとも生まれ育った場所から遠く見知らぬ人々の間で孤独を噛みしめる感情に通じるかもしれない。だけれど掲句では情熱の国の名が「牡丹雪」の字面に響き、やはりどこの地名でもない「スペイン」が異国で暮らす哀しみを切なく灯しているように感じられる。『ペリカンと駱駝』(1994)所収。(三宅やよい)


February 1822009

 つみ上げし白き髑ろか雪の峯

                           会津八一

るほど冬の山間部に踏みこめば、雪に覆われた峯々は確かに「白き髑(どく)ろ」を重ねたように見える。大きくふくらんで盛りあがっている髑髏もあれば、小さくちぢこまっている髑髏もある。さまざまな表情をした髑髏が、身を寄せ合い重なり合っているようであり、峯々はまさしく「つみ上げ」たようにも眺めることができる。上五「つみ上げし」が、見あげるような峯の高さを表現している。凝ったむずかしい表現を避けて、さりげなく「つみ上げし」としたところにかえって存在感がある。特に雪の詠み方は、妙な技巧をほどこさないほうが生き生きとした力を発揮する。雪の峯を「髑ろ」ととらえてみせたところに、モノの姿かたちを厳密に見つめる書家・秋艸道人らしい視線が感じられる。その「白き髑ろ」の表情も、天候や時間の経緯によって刻々と変化して見えてくるはずである。髑髏とはいえ、ここには少々親しげな滑稽味も読みとれる。雪山はある時は峨々として、ある時はたおやかにも眺められよう。但し、八一が「髑ろ」である、と断定しきらずに、一語「・・・か」という疑問含みのニュアンスを残したことによって、句の奥行きが増したと言える。八一の俳号は八朔郎。ほかに雪を詠んだ句に「あさ寒や妙高の雪みな動く」「俳居士の高き笑や夜の雪」などがある。『会津八一全集第六巻 俳句・俳論』(1982)所収。(八木忠栄)


February 1722009

 恋猫といふ曲線の自由自在

                           杉山久子

が家の三毛猫は、松の内が明ける頃早々に恋猫となる。近所に野良猫もたくさん住む環境ながら、タイミングがずれているせいか、雄猫がうろつくこともなく、孤独のうちに恋猫期が終わる。そして、二月に入ると近所の猫たちの恋のシーズンが始まるが、この時期にはもう我関せず。ペットだからいいようなものの、女性としてはどうなのよ、と質問したいものである。恋猫の姿というのは、掲句の通り、立っても歩いても寝転んでもどこかしら魅惑の曲線を伴う。とはいえ、猫嫌いの方にとっては、あのくねくねした感じがなによりイヤと言われるのかもしれない。猫好きが多い私の周りで、はっきり猫が嫌いという方の理由を聞くと「抱いたときのあのぐにゃっとした感じ」なんだそうだ。「お菓子が嫌いなのはあの甘いところ」に通じるような、とりつく島のなさに思わず笑ってしまったが、猫が苦手という何人かに聞くと、総じて「分かる分かる」と頷かれる。猫諸君。抱かれるときは少し身を固くしてみてはいかがだろうか。〈雛の間に入りゆく猫の尾のながき〉〈猫の墓猫に乗られてうららけし〉『猫の句も借りたい』(2008)所収。(土肥あき子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます