花の香を若葉にこめてかぐはしき 桜の餅(もちひ)家づとにせよ(子規)。(哲




2009ソスN2ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2022009

 一呼気をもて立たしめよ冬の虹

                           山地春眠子

気に、こきとルビあり。息を吐くと虹が立つイメージは美しいが珍しい発想とはいえない。この句を特徴あらしめているのは、吐く息を呼気と言ったところ。言葉が科学的な雰囲気を帯びて、体の現象として厳密に規定されること。つまり科学、医学、病気、病状という連想を読者にもたらすのだ。「梅の香や吸ふ前に息は深く吐け」は波郷の自分を客観視した述懐。この句は「立たしめよ」で他者に対する祈りの思いが出ている。この句所収の句集を見ると章の前書きから病状重い妻への祈りの絶唱とわかるが、たとえそれがわからずとも、「立たしめよ」や「虹」などの情感横溢の心情吐露の中で、「呼気」だけが持つ違和感に気づくとこの祈りのリアルさがよくわかる。『元日』(2009)所収。(今井 聖)


February 1922009

 スペインで暮らす哀しみ牡丹雪

                           小西昭夫

本にしか暮らしたことがないので、言葉も習慣も違う国で暮らす哀しみは想像するしかない。とはいえ生まれ育ったのが神戸だったので子供のころ外国へ移住する人々を乗せた客船を見送ったことはある。色とりどりの紙テープをひきずって巨船がゆっくり波止場を離れてゆくのに合わせ蛍の光が流れていた。あれから半世紀近く経つが、船のデッキから身を乗り出して手を振っていた人々はどうしているのだろう。外国で年を重ねるごとに望郷の念は強くならないのだろうか。白いご飯や、ごみごみした路地、湿った空気が恋しくはならないだろうか。異国でも雪は降るだろうが、薄明るい空から軒先にひらひら降りてくる大きな雪を見て、「ああ、牡丹雪だねぇ、春が近いねぇ」と頷き合う相手がいてこその言葉の満足。そう考えるとこの句の「哀しみ」はスペインでなくとも生まれ育った場所から遠く見知らぬ人々の間で孤独を噛みしめる感情に通じるかもしれない。だけれど掲句では情熱の国の名が「牡丹雪」の字面に響き、やはりどこの地名でもない「スペイン」が異国で暮らす哀しみを切なく灯しているように感じられる。『ペリカンと駱駝』(1994)所収。(三宅やよい)


February 1822009

 つみ上げし白き髑ろか雪の峯

                           会津八一

るほど冬の山間部に踏みこめば、雪に覆われた峯々は確かに「白き髑(どく)ろ」を重ねたように見える。大きくふくらんで盛りあがっている髑髏もあれば、小さくちぢこまっている髑髏もある。さまざまな表情をした髑髏が、身を寄せ合い重なり合っているようであり、峯々はまさしく「つみ上げ」たようにも眺めることができる。上五「つみ上げし」が、見あげるような峯の高さを表現している。凝ったむずかしい表現を避けて、さりげなく「つみ上げし」としたところにかえって存在感がある。特に雪の詠み方は、妙な技巧をほどこさないほうが生き生きとした力を発揮する。雪の峯を「髑ろ」ととらえてみせたところに、モノの姿かたちを厳密に見つめる書家・秋艸道人らしい視線が感じられる。その「白き髑ろ」の表情も、天候や時間の経緯によって刻々と変化して見えてくるはずである。髑髏とはいえ、ここには少々親しげな滑稽味も読みとれる。雪山はある時は峨々として、ある時はたおやかにも眺められよう。但し、八一が「髑ろ」である、と断定しきらずに、一語「・・・か」という疑問含みのニュアンスを残したことによって、句の奥行きが増したと言える。八一の俳号は八朔郎。ほかに雪を詠んだ句に「あさ寒や妙高の雪みな動く」「俳居士の高き笑や夜の雪」などがある。『会津八一全集第六巻 俳句・俳論』(1982)所収。(八木忠栄)




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