草森紳一の遺族から一周忌の案内。故人の意思を汲み東京湾に散骨するという。(哲




2009ソスN2ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2322009

 春浅し猫が好まぬ女客

                           川久保亮

ってきた女客を見て、部屋の隅にすっとんで逃げたのか、あるいは毛を逆立てて威嚇の挙に出たのか。猫の生態についてはよく知らないが、猫好きな人かどうかが分るのだという。子供の頃に一度だけ飼った経験から言えば、そのようなことはありそうだ。来客の折りに、この句のようにまったく寄りつこうとしないときもあるし、すぐになついてしまい、図々しくもちゃつかり客の膝の上で居眠りをはじめることもあった。猫が客に寄りつこうが寄りつくまいが、どうということでもないようだけれど、あれで案外ホスト側は神経を使うものなのだ。人見知りの赤ん坊が、客の顔を見て火がついたように泣き出すことがある。これに似た神経の負担になる。その場を取り繕うのに、いささかしどろもどろ気味の言葉を発したりしてしまう。更に作者の心情に踏み込めば、猫と同じように、どこかでこの女客に親しみを感じていないフシもうかがえる。窓から見える表の陽光はすっかり春なのではあるが、しかしまだそれは冷気を含んでいる。風も荒い。そんな春浅き日の様子に、猫の不機嫌な態度と作者の戸惑いとがぴたりと重なった。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


February 2222009

 春日や往来映ゆる海のへり

                           小杉余子

んなにすぐれた句に出会っても、読んですぐには、いったい自分がその句の、どのような点に感動したのかが、明確にはわかりません。その時の印象としては、ただひどく気になって仕方がない、というだけのことなのです。今日の句を読んだときにも、どうしてこの句が新鮮に感じたのかが、しばらくわかりませんでした。とにかく鮮やかなものが、こちらに押し寄せてきたのです。幾度も読み返しているうちに、自分の中の受け止め方が、少しずつ見えてきました。それはおそらく、視点が、陸地から海へ向かっているのではなく、逆方向に、つまりは海のほうから陸地を見下ろしているように感じたからなのです。その陸地は、断崖絶壁の手の届かないところにあるのではなく、手を伸ばせばすぐに触れられそうな、人々がいくらでも歩いている「往来」だというのです。「映ゆる」は、海の照り返しが光となって、往来を行き来する人々の顔を下から照らしているということでしょうか。人々の日常の、すぐ隣に非日常の海が迫っている。生きるとはそのようなことなのだと、美しく、言われているようです。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


February 2122009

 庭先の梅を拝見しつつ行く

                           松井秋尚

るほど拝見とは、今が盛りの梅にして言い得て妙である。さりげない表現だが、まこと梅らしい。家から駅まで、数分の道のりだけれど、私にも毎年拝見させていただいている梅の木が何本かある。夕暮れ色の薄紅梅、濃紅梅の盆梅、などまさに庭先の梅ばかり。他にも、黒い瓦屋根がりっぱな角の家の白梅。花は小ぶりなのだが咲き広がってきらきらしている。近くのお寺の境内の奥には、今年初めて気がついた青軸の梅が二本。刈り込まれた庭園の梅とはまた違って野梅めき、ひっそり自由に咲いている。梅林よりも、そんな庭先の親しさが好もしい。花の色も形も枝ぶりも実にさまざまな梅の、長い花期を楽しむうち、冴え返ったりまたゆるんだりしながら、日は確実に永くなってきている。サラリーマン時代に、会社の研修の一環で俳句を始められたという作者。〈勤めたる三十年や遠蛙〉〈入社式大根足のめづらしく〉『海図』(2006)所収。(今井肖子)




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