腕時計の文字盤がいきなり真っ白に。電池の残量がわからないので困る。(哲




2009ソスN2ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2622009

 二人居るごとく楽器と春の人

                           中村草田男

器はどれもエロチックで美しいフォルムを持っている。掲句を読んであらためて考えてみると確かに演奏者が楽器と寄り添う姿は恋人を抱擁しているようだ。この「人」にかかる季節をいろいろ入れ替えてみたが、一番よく音楽が似合う季節はなんといっても春。暖かな春の休日に井の頭や石神井公園を散歩していると、バイオリンやフルートの音色が流れてきて心が明るくなる。夢中になって演奏している姿は実に楽しそうで、楽器と睦み、語らっているようだ。楽器は人が繰るものではなく、自分の感情を指や呼吸で伝えれば、音で答えてくれるもの。表現するのに技術を鍛えなければならないのはもちろんだけど、どんな語りかけにも良い音色で応えてくれるほど楽器は優しくない。そう思えば「二人居るごとく」と見るものに存在感を感じさせるのは恋人に対する心遣いで楽器と向き合ってこそかもしれない。『大虚鳥』(おほをそどり)(2003)所収。(三宅やよい)


February 2522009

 幇間の道化窶れやみづっぱな

                           太宰 治

の場合、幇間は「ほうかん」と読む。通常はやはり「たいこもち」のほうがふさわしいように思われる。現役の幇間は、今やもう四人ほどしかいない。(故悠玄亭玉介師からは、いろいろおもしろい話を伺った。)言うまでもなく、宴席をにぎやかに盛りあげる芸人“男芸者”である。いくら仕事だとはいえ、座持ちにくたびれて窶(やつ)れ、風邪気味なのか水洟さえすすりあげている様子は、いかにも哀れを催す。幇間は落語ではお馴染みのキャラクターである。「鰻の幇間(たいこ)」「愛宕山」「富久」「幇間腹(たいこばら)」等々。どうも調子がいいだけで旦那にはからかわれ、もちろん立派な幇間など登場しない。こういう句を太宰治が詠んだところに、いかにも道化じみた哀れさとおかしさがいっそう感じられてならない。考えてみれば、太宰の作品にも生き方にも、道化た幇間みたいな影がちらつく。お座敷で「みづっぱな」の幇間を目にして詠んだというよりも、自画像ではないかとも思われる。「みづっぱな」と言えば、芥川龍之介の「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」がよく知られているし、俳句としてもこちらのほうがずっと秀逸である。二つの「水洟」は両者を反映して、だいぶ違うものとして読める。太宰治の俳句は数少ないし、お世辞にもうまいとは言えないけれど、珍しいのでここに敢えてとりあげてみた。ほかに「春服の色 教えてよ 揚雲雀」という句がある。今年は生誕百年。彼の小説が近年かなり読まれているという。何十年ぶり、読みなおしてみようか。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


February 2422009

 蝶の恋空の窪んでゐるところ

                           川嶋一美

句の季語「蝶の恋」とは、「鳥の恋」「猫の恋」同様、俳句特有の人間に引きつけた思い切り遠回しな発情期や交尾を意味する表現である。ことに「蝶の恋」は、おだやかな風にのって、二匹の羽がひらひらと近づいては遠のき、舞い交わすロマンチックで美しいイメージを伴う。蝶の古名は「かわひらこ」。語源でもあろうが、そこから響く音感には春の陽光に輝く川面をひらひらと飛ぶ姿が鮮明にあらわれてる。中国で「一対の蝶」とは永遠の絆を象徴するように、この若々しく可憐ないとなみが「空の窪み」という愛らしい表現を生んだのだろう。では一体全体「空の窪み」とは具体的にどのような…、などというのはめっぽう野暮な詮索というものだ。思うに、青空がにっこり笑ったときに、ぺこんと出来たえくぼのようなところだろう。あからさまに明るすぎることなく、二匹の蝶が愛をささやき身を寄せるために誂えたような、特別な場所である。〈じつとり重し熟睡子と種俵〉〈午後はもう明日の気配草の絮〉『空の素顔』(2009)所収。(土肥あき子)




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