よほど疲れたのか昨夜は爆睡。この言葉も廃れた。そんな余裕はないんだな。(哲




2009ソスN3ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0432009

 人形も腹話術師も春の風邪

                           和田 誠

どもの頃、ドサまわりの演芸団のなかにはたいてい腹話術も入っていて、奇妙といえば奇妙なあの芸を楽しませ笑わせてくれた。すこし生意気な年齢になると、抱っこされて目をクリクリ、口パクパクの人形の顔もさることながら、腹話術師の口元のほうに目線を奪われがちだった。なんだ、唇がけっこう動いているじゃないか、ヘタクソ!とシラケたりしていた。腹話術師は風邪を引いたからといって、舞台でマスクをするわけにはいかないから、人形にも風邪はうつってしまうかもしれない。絶対にうつるにちがいない、と考えると愉快になる。――そんな妄想を、否応なくかきたててくれるこの句がうれしい。冬場の風邪ではなく、「春の風邪」だからそれほど深刻ではないし、どこかしらちょいと色気さえ感じられる。そのくせ春の風邪は治りにくい。舞台の両者はきっと明かるくて軽快な会話を楽しんでいるにちがいない。ヨーロッパで人形を使った腹話術が登場したのは、18世紀なかばとされる。イラストだけでなく、しゃれた映画や、本職に負けない詩や俳句もこなすマルチ人間の和田さん。通常言われる「真っ赤な嘘」に対し、他愛もない嘘=「白い嘘」を句集名にしたとのこと。ことばが好きであることを、「これは嘘ではありません」と後記でしゃれてみせる。ほかに「へのへのと横目で睨む案山子かな」という句も楽しい。虚子の句に「病にも色あらば黄や春の風邪」がある。『白い嘘』(2002)所収。(八木忠栄)


March 0332009

 雛の間につづく廊下もにぎはへる

                           原 霞

が家は地方の新興住宅地にあったので、そこらじゅうに同世代の女の子が住んでいて、二月に入ると月曜日の登校時は「きのう出した」「うちも出した」とにぎやかに雛人形のお出ましを報告し、「学校が終わったら見に行くね」と約束し合うのだった。のんびり屋の母に「みんなもう出したんだってー」とせっつき、「うちはうち」などと言われていたのも懐かしいやりとりだ。それにしても、これほど居場所を選ぶ人形もないだろう。なにしろ和室でないとさまにならない。そして何段飾りともなると、雛壇に使用する場所だけでなく、一体ずつ収まっている人形を箱から出すためのスペースが必要であり、あれがないこれがないと作業エリアは果てしなく広がっていく。これはこっちの部屋に移して、これは一時廊下に出しておいて、などと算段するのも母と娘の楽しみの一つだった。かくして雛の間ができあがり、友人たちの雛詣を待つ。女の子たちの笑い声に続き、軽やかな足音が雛の間へと吸い込まれていくのは、きらきら光る動線のようだったことだろう。雛人形を飾らなくなって久しいが、毎年三月三日になると、あちらこちらのお宅のなかで華やかな光りの筋が行き交っていることを思い、ちょっぴりわくわくするのだった。〈山おぼろ湯をすべらせて立ち上がる〉〈包丁が南瓜の中で動かない〉『翼を買ひに』(2008)所収。(土肥あき子)


March 0232009

 花冷の水が繩綯ふ川の中

                           真鍋呉夫

京辺りでは、今年の桜の開花は早いそうだ。とはいえまだ少し先だけれど、早咲きを願ってこの句を紹介する。季語は「花冷(え)」で、桜は咲いたのに、どうかすると冷え込むことがあるが、そのころの季感を言う。桜の樹は川べりに植えられることも多いので、このときの作者はちょっと川端で花見でもと洒落込んだのだろうか。しかし、あいにくの冷え込みだ。襟を掻き合わせるようにして、どこまでも白くぼおっとつづく桜並木を見ているうちに、自然に川の水に目が移った。桜の花はいわば幻想的な景観だが、川の水はいつ見ても現実そのものだから、桜を眺めていたまなざしが、ふと我に返ったのである。むろん大気の冷えが、そうさせたのだ。こういうときの現実は強い。普段なら気にもしない水の流れに、作者の目はおのずから吸い寄せられていった。思わずも凝視しているうちに、どうした加減か、川のある箇所の水が捩れながら流れている。その様子がまるで縄を綯(な)っているように見えたというのである。縄を綯ったことのある人ならば、あのいつ果てるとも知れない単調な作業を思い出して、句景はすぐに了解できるだろう。作者はいつしか桜のことを忘れてしまい、しばし川水の力強い縄綯いの「現実」に見入ってしまうのであった。『月魄』(2009)所載。(清水哲男)




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