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2009ソスN3ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1332009

 蝶帰り来ず運河を越ゆる太きパイプ

                           久保田月鈴子

鈴子は鈴虫のこと。げつれいしと読む。旧制静岡高校で中曽根康弘と同窓。東大卒業後、国策による合併企業帝国石油に勤務。企業幹部とならず労組の中央副委員長や新産別の副執行委員長として一貫して労働者の側に立った。俳句は「寒雷」創刊以来加藤楸邨に師事。森澄雄、平井照敏のあと編集長を務める。平成四年、享年七六の月鈴子さんの葬儀に、僕は車に楸邨を乗せ参列した。楸邨はすでに支えなければ歩めぬほどに弱っていたが、遺影の前に立って弔辞を述べた。弔辞の中で楸邨は、氏の組合活動への情熱をまず回顧して称えた。帰って来ない蝶は底辺労働者の誰彼。彼らの闘争の歴史の上に太いパイプが築かれる。自分と同時代の人間と社会の関わりを詠んだ俳人は多いが、「社会性」を単なる「流行」として齧り、たちまち俳句的情緒へと「老成」していった「賢い」俳人もまた多い。月鈴子さんは本物だった。『月鈴児』(1977)所収。(今井 聖)


March 1232009

 青空の暗きところが雲雀の血

                           高野ムツオ

野公彦の短歌に「ふかぶかとあげひばり容れ淡青(たんじやう)の空は暗きまで光の器」という一首がある。「雲雀」「青空」「暗い」というキーワードとまばゆいばかりの明るさと暗さが交錯する構成は共通しているが、表現されている世界は違う。高野公彦の短歌は一羽の雲雀から空全体へ視界が広がってゆくのに対しムツオの俳句は空から雲雀の血へと焦点が絞り込まれてゆく。公彦の世界では暗いのは光の器になるまで輝いている青空全体であり、淡青の空の裏側に暗黒の宇宙を透視している。それに対して掲句の場合暗いのは「雲雀の血」であり、空に舞う雲雀が一点の染みとして捉えられている。地上の巣を見守るため空に揚がり続ける雲雀の習性に宿命を感じているのだろうか。青空の雲雀は俳句ではのどかな情景として描かれることが多いが、この句ではそうした雲雀を見る眼差しが自分を見つめる内省的な目と重なってゆくようである。『現代俳句一〇〇人二〇句』(2001)所載。(三宅やよい)


March 1132009

 春の雪誰かに電話したくなり

                           桂 米朝

球温暖化のせいで、雪国だというのに雪が少なくてスキー場が困ったりしている。春を思わせる暖かい日があるかと思えば、一晩に一挙に30センチ以上も降ったりすることが、近年珍しくない。私の記憶では、東京では冬よりもむしろ三月に雪が降ることが少なくなかった。季節はずれに雪が降ったりすると、なぜかしら親しい友人につい電話して、雪のことにとどまらず、あれこれの近況を語り合ったりしたくなる。電話口で身を縮めながらも、「今ごろになってよう降るやないか。昼席がハネたら雪見酒としゃれようか」とでも話しているのかもしれない。もっとも雪国でないかぎり、昼席がハネる頃には雪はすっかりあがっているかもしれない。雪は口実、お目当ては酒。春の雪は悪くはない。顔をしかめる人は少ないだろう。むしろ人恋しい気持ちにさせ、ご機嫌を伺いたいような気持ちにさせてくれるところがある。米朝は八十八の俳号で、東京やなぎ句会の一員。言うまでもなく、上方落語の第一人者で人間国宝。息子の小米朝が、昨年10月に五代目桂米団治を襲名した。四代目は米朝の師匠だった。米朝が俳句に興味をもったのは小学生の時からで、のち蕪村や一茶を読みふけり、「ホトトギス」や「俳句研究」を読んだという勉強家。「咳一つしても明治の人であり」「少しづつ場所移りゆく猫の恋」などがある。小沢昭一『友あり駄句あり三十年』(1999)所収。(八木忠栄)




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