エレベーター一時停止のため、8階から階段を下りたら膝ががくがくに。(哲




2009ソスN3ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2132009

 大男にてもありける利久の忌

                           相生垣瓜人

休忌(利久忌)は、旧暦二月二十八日。今年でいうと、三月二十四日にあたる。そして利休の身長は、残されている鎧から推測すると180cm位だったらしい。利休、茶道、侘び茶という連想から、こじんまりと枯れた雰囲気の人物像を勝手に想像してしまっていたが、考えてみれば戦国時代、お茶を点てるのも命がけであり、利休にしろ始めからおじいさんだったわけではない。それにしても、秀吉の身長が、通説の140cmは不確かとはいえ、少なくとも小柄だったことは間違いないとすれば、二人の心理的関係の別の側面も想像される。この句は、利休は大男であった、という、ちょっと意外とも思われる事実を、やや詠嘆をもって詠んでいる。それを知っていれば、そうなんだよね、と思いながら、知らなければ、へえそうなんだ、と思いながら、利休の生涯にそれぞれがふと心を留めるだろう。正座と和菓子が大の苦手で、茶道はとても近寄りがたいが、利休という人物にはちょっと興味をひかれるのだった。「新日本大歳時記 春」(2000・講談社)所載。(今井肖子)


March 2032009

 男根担ぎ佛壇峠越えにけり

                           西川徹郎

ぎも越えるも具体的な動作だから、まずそういうふうに読んでみると、担がねばならぬほどの巨大な男根を肩に乗せて、作者が佛壇峠という峠を越えてゆく。佛壇で一度句が切れれば、佛壇が男根を担いで峠を越える図になるのだが、「けり」という止めかたもあり、まずは佛壇では切れないと踏んだ方がよさそうだ。肩に乗せた男根とは何ぞや。ああ、これは自分の性的な意識の象徴だと思ってみる。そうすると佛壇峠は倫理観の象徴かもしれない。略歴をみると、作者は僧侶。それで少し納得が行く。性への衝動と、倫理観でそれを抑制しようとする自己の内部のせめぎあいが峠越えか。おもわず噴出しそうな図柄を見せておいて、何か人間の本質的な暗部へとこの句は誘っているのかもしれない。細谷源二の「氷原帯」を出自とする作者だが、虚子系の俳人吉本伊智朗の句に「縛されて仏壇がゆく接木畑」がある。こちらも不思議な佛壇の存在感である。『西川徹郎全句集』(2000)所収。(今井 聖)


March 1932009

 人ごみに蝶の生るる彼岸かな

                           永田耕衣

語で彼岸といえば春の彼岸をさすらしい。春の茫洋とした空気の中でこっちとあっちの世界はぐぐっと近くなるのだろう。掲句は耕衣が二十歳の頃「ホトトギス」に投句した作品だそうだ。処女作には作家の全てが含まれる。と言われるが初期のこの句にその後の耕衣の行き方が示されている。春のうららかな日を浴びて人ごみに生まれる蝶は、死者の生まれ変わりとも歩いている一人が変化した姿とも受けとめられる。夏石番矢の『現代俳句キーワード』によると「蝶はどうやら霊的存在の一時的に宿る移動手段と考えていたらしい。西洋では蝶に死者の霊魂を見ていた。」とある。そう思えば彼岸に蝶が生まれる場所に最も俗な「人ごみ」を想定することで、いま在ることがあの世に繋がってゆく生と死の連続性が感じられる。その点から言えばどことなく不思議な光を放つこの句を耕衣後期の作品に混ぜても違和感はないように思う。『永田耕衣句集』(2002)所収。(三宅やよい)




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