吉祥寺図書館にある唯一の公衆電話。「なるべく小声で話して」との注意書き。(哲




2009ソスN3ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2532009

 全身を春いっぱいにする涙

                           豊原清明

東地方でもようやく桜がほころびはじめた。春はなにも桜とかぎったわけではないけれど、やはり桜が咲くことによって、私たちのからだのなかにも春は機嫌よく広がってゆく。「全身を春いっぱいにする」のは、春の真新しい涙に映っているチューリップであり、辛夷であり、桜であり、青空に浮かぶちぎれ雲かもしれない。それらは春があちらこちらにあふれさせ、こぼした「涙」とも言えるのではないか。「涙」をもってきたところに、作者の清新なポエジーが感じられる。幸せいっぱいの涙、悲しみをこらえきれない涙、理由もなくセンチメンタルになってしまう涙・・・・全身になぜか涙が広がり、春が広がってゆくうれしさ。きれいな季節を奏でているかのような春の涙。春こそいろいろな意味での「涙」があふれる季節、と言っていいかもしれない。その涙は目からあふれるにちがいない。それ以前に全身これ春というふうに涙がいっぱい詰まっている、そのように大胆にとらえているところに、この詩人独自のポエジーの躍動が鮮やかに感じられる。春と涙の関係に鋭く着目したわけである。清明は処女詩集『夜の人工の木』で第一回中原中也賞を受賞した(1996)。「朝日新聞」俳壇では金子兜太選で現在も頻繁に入選していて、私は以前から注目している。清明は「ここ数年、真面目な俳句を『海程』に投句しています」と書いている。「火曜」97号(2009)所載。(八木忠栄)


March 2432009

 朧夜のぽこんと鳴りし流し台

                           金子 敦

の回りのものが立てる音には、住人にそっと寄り添うような優し気なものと、ぞっと孤独を引き立てる音とがある。前者は、階段がきゅーと鳴る場所だったり(暗闇のなかわざわざ踏んで下りたりする)、水道の出だしのキョッという音(あ、準備して待っていたんですがついうっかり眠ってしまって、ちょっと驚いちゃいましたよ、という感じ)などは、思わず「一緒に暮らしているんだね」と微笑みかけたくなる。しかし、掲句の「ぽこん」は後者である。この音に聞き覚えのある方は、インスタント焼きそばの湯切り経験者だと確信する。流し台に熱い湯を捨てるとき、必ずステンレスが「ぽこん」というか「ぼこっ」と音を立てる。それはもう、とてつもなく唐突に孤独を感じさせる音なのである。なるべく音がしないように場所を変えてみたり、少量ずつこぼしてみたりするが、流し台は「どうだ、寂しいだろう」とばかりに必ず鳴る。固く錠をかけていた胸の奥の扉が開き、潤んだ春の夜がするするっと忍び込んでくる。『冬夕焼』(2008)所収。(土肥あき子)


March 2332009

 コノハナサクヤ三合の米を研ぐ

                           中居由美

年も桜の季節になった。「コノハナサクヤ」は『古事記』に出てくるコノハナサクヤヒメにかけてある。ただし、うっすらと……。ヒメはその美しさを望まれて天皇の后となった女性だが、一夜にして身ごもったことから、他の男の子供だろうと天皇に疑われる。そこでヒメはおのれの潔白を証明すべく、産屋に火を放って出産する。もしも天皇の子でないとしたら、無事にはすまないはずだというわけだ。そうして無事に産まれた子は三人だった。作者は桜が咲きはじめたことから、なんとなく「コノハナサクヤ(木の花咲くや)」と呟いたのだろう。で、いまやっている仕事が米を研ぐという典型的な庶民のそれであることに、大昔のヒメとの生活感の落差を感じて、ひとり可笑しいような少し情けないような思いがちらりと頭を掠めたのである。しかも「三」は三でも、米が三合。実はコノハナサクヤヒメは姉とともに嫁いだのだが、姉は醜かったので直ちに帰されてしまった。そんな後ろめたさを背負ってもいたので、彼女の人生は必ずしも明るかったとは言えない。そんなことも想起されて、作者は自分のドラマチックでもなく激情的でもない人生や生活のありようを、むしろ好ましく感じているのでもある。ほろ苦いユーモアの効いた佳句だ。『白鳥クラブ』(2009)所載。(清水哲男)




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