旧暦雛祭り。江戸末期から大正期まで庶民が飾った土雛。これは富山土人形。(哲




2009ソスN3ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2932009

 同じ顔ならぶ個展や春の雨

                           片山由美子

の句に詠まれている顔は、絵の中の顔ではなく、会場に来ている見学者の顔なのだろうと思います。個展会場の壁に整然と掛けられた絵、それぞれに、ひとつずつの顔が相対しており、その顔がどれも似ているというのです。いえ、同じだと言うのです。むろん、人の顔そのもののつくりは違うものの、雨の中をはるばるこの会場へ来て、扉を開け、絵を観賞するために視線を向けている姿勢と心持は、それまでの時間がどんなに異なっていても、同じところに落ち着いてしまうもののようです。あるいは、描かれた絵の力によって、どの顔も、ほほえましい笑顔や、引き締まったまなざしを持つようにさせられているのかもしれません。個展というのですから、広い敷地の美術館ではなく、銀座の裏通りに面した、こじんまりとした画廊ででもあるのでしょう。窓の外には止むことなく、静かに雨が降り続いています。見れば春の宵を、どの一粒も同じ顔をした雨が並んで落ちています。見るものと見られるものの関係の美しさを、やわらかく詠っています。「俳句」(2009年4月号)所載。(松下育男)


March 2832009

 不可能を辞書に加へて卒業す

                           佐藤郁良

業シーズンが終わり、三月が終わる。このところの寒の戻りで、東京の桜の見頃も予想より遅れそうだが、温暖化の影響で満開にならない桜もあるらしいと聞くと、いろいろなものが少しずつひずんできているのだと改めて。それでも、最近の中高生に教えるのは大変でしょう、と聞かれると、まあそう変わりません、というのが正直なところだ。今も昔も、中学から高校にかけての年頃は、本人もまわりも大変といえば大変だし、その成長ぶりは常に想像を超えてめざましい。この句の卒業は高校である。不可能が辞書に加わった理由は、大学入試の失敗か失恋かそれとも。どう読むかで、思い描かれる十八歳の人間像がだいぶ違うのも面白い。いずれにしろ、お互いの人生の一時期を共有できたことに感謝しつつ、彼等の未知の可能性を信じて送り出す教師のまなざしがある。〈卒業や証書の中に光る沖〉『海図』(2007)所収。(今井肖子)


March 2732009

 春濡れの雉子鳩の翅役者の子

                           栗林千津

子鳩の見える風景から、旅役者の子を思う。旅役者子といえば「伊豆の踊り子」。百恵ちゃんの「かおる」も良かったが、何といっても吉永小百合だ。映画の最後の場面で、一高生川島と別れたあと、酔客たちに囃されながら奴さんの振りで踊っている小百合ちゃんの可憐さが強烈に心に残った。映画化されたものの中だけでも、この二人のほかに、田中絹代、美空ひばり、内藤洋子、鰐淵晴子。どの「かおる」もその時代のニキビ面の青年の胸を揺さぶったに違いない。この句の作者は現実的な空間の中でのドラマ仕立てを意図する傾向にはない。「春濡れ」という伝統派にはない季語の用い方や、鳥なのに「羽」を用いず「翅」というところにその特徴が出ている。違和感や屈折感をも利用して言葉が内面を象徴するように願う方法。そう理解していても読者の側からあえてドラマに引き込んで鑑賞したくなる俳句もある。『蝶や蜂や』(1990)所収。(今井 聖)




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