今宵の井の頭公園は花見客でごったがえしそう。近寄るべからず(笑)。(哲




2009ソスN4ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0342009

 暮春おのが解剖体を頭に描くも

                           目迫秩父

号「めさくちちぶ」と読む。春の暮の明るさと暖かさの中で、おのれの解剖される姿を思い描いている。宿痾の結核に苦しみ昭和三十八年に喀血による窒息死で四十六歳で死去。組合活動で首切りにあうなど、常に生活苦とも戦った。こういう句を読むと、今の俳句全体の風景とのあまりの違いに驚かされる。文体は無条件に昔の鋳型をとっかえひっかえし、季語の本意本情を錦の御旗にして類型、類想はおかまいなし。若い俳人たちは、「真実」だの「自己」だのは古いテーマと言い放ったあげくコミックなノリにいくか、若年寄のような通ぶった「俳諧」に行くか。自分の句を棚に上げてそんな愚痴をいうと、ぽんと肩を叩かれて「汗も涙も飢えも労働も病も、もう昔みたいに切実感を失ってテーマにはならないんだよ」そうかなあ、どんな時代にも、ただ一回の生を生きる「私」は普遍的命題。いな、普遍的なものはそれだけしかないのではないか。この句の内容はもとより、上句に字余りを持ってきた文体ひとつにしてもオリジナルな「私」への強烈な意識が働いていることを見逃してはならない。『雪無限』(1956)所収。(今井 聖)


April 0242009

 さくらばな散るや家族の鮨の上

                           吉田汀史

京でも本格的に桜が咲き始めた。日曜日に訪ねた小金井公園では数百本を超える花の下で大勢の人たちが食事を楽しんでいた。桜前線の北上に伴って、全国各地で飲食の宴が繰り広げられることだろう。持ち込まれるごちそうは様々だが、掲句の「鮨」はそのむかし、遠足や運動会の「ハレ」の日に母親が準備してくれた巻き鮨やちらし鮨だろう。普段はめったに口にすることの出来ないごちそうを家族そろって外で食べるのは特別な嬉しさだった。この句を読んで、季節は違うが岡本かの子の「鮨」という小説を思い出した。食が細くて食べ物を受け付けなかった男の子が母親の握った鮨を初めて食べた日を大人になってから懐かしむ話だが、青葉の照る縁側で母親が鮨を握るくだりが好きだった。「よくご覧、使う道具はみな新しいものだよ。それから拵える人はおまえさんの母さんだよ」と、ぱんと打ったきれいな掌から繰り出してくる鮨のおいしそうだったこと。「家族の鮨」という言葉に酸味が効いた手作りの鮨の味が口いっぱい広がる。その鮨の上にほろほろと散るさくらばなが無条件で家族が睦みあっていた頃へ読むものを連れ出し、それぞれの回想を誘うのだろう。『海市』(2007)所収。(三宅やよい)


April 0142009

 噴水のりちぎに噴けり万愚節

                           久保田万太郎

日は万愚節(四月馬鹿)。今の時季、あちこちの句会ではこの季語を兼題とした夥しい句が量産されているにちがいない。日本各地で“馬鹿”が四月の始まりを覆っていると思うと、いささか愉快ではないか。言うまでもなく、この日はウソをついて人をかついでもよろしいとされる日である。もともと西欧から入ってきた風習であり、April Fool's Day。フランスでは「四月の魚」と呼ぶ。インドが起源だとする説もあるようだが、一般に起源の確証はないそうである。現在の噴水はだいたい、コンピューター操作によって噴き方がプログラミングされているわけだから、勝手気ままに乱れるということなく、きちんと噴きあげている。掲出句は「りちぎ(律儀)」ととらえたところに、万太郎ならではの俳味が加わった。世間は「万愚節」だからといって、春の一日いたずら心のウソで人を惑わせようとくわだて、ひそかにニヤリとしているのに、噴水は昨日も今日も変わることなく水を高々と噴きあげている。万太郎は滑稽な噴水図を作りあげてくれた。人間世界に対する皮肉でもあろう。もっとも、そこいらじゅうに悪質なウソが繁殖してきている今の時代にあっては、万愚節という風習がもつゆとりとユーモアも半減というところか。万愚節を詠んだことのない俳人はいないだろう。「万愚節半日あまし三鬼逝く」(石田波郷)「また同じタイプに夢中万愚節」(黛まどか)。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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