先週ちょっと風邪を引いてからだるさが続く。今日は休んで体調立て直しだ。(哲




2009ソスN4ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0842009

 雲も水も旅をしてをり花筏

                           相生葉留実

が咲いても散っても、雲は流れ水も止むことなく流れている。その雲は地上に散ったはずの桜が、何かの拍子に空に固まって浮かんだみたいに見えているのかもしれない。流れる水は散った花びらを浮かべて、みごとな花筏になっている。悠久の時間を旅している雲も水も、花筏をとりこんだことによって、この句では大きくて美しい時空を造形することができた。雲は天にあり、水は地にあり、天地の間を雲や水を愛で、散った桜/花筏に目を細めて人は行きすぎる。そんな弥生の頃の風情である。葉留実さんはもともと詩人で、私は第一詩集『日常語の稽古』刊行当時から、注目していた女性詩人の一人である。平井照敏主宰の「槙」誌で、ご主人の村嶋正浩さんとならんでいる彼女の名前を発見したときは、「俳句もやるんだ!」と思わずニヤリとした。数年前に詩人の会で久しぶりにお目にかかったのに、今年1月に逝去されたと聞いて言葉を失った。「槙」がなくなった後、「翡翠」誌に移った彼女の俳句をずっと拝見していた。鈴木章和主宰は「どの句にも、そのままの彼女自身がいて、ときに清楚な含羞を見せている」とコメントしている。同誌最新号冒頭には葉留実さんの八句が掲げられている。「長旅の川いま海へ大晦日」「浮世はなれ彼の世へゆく日冬銀河」。今は「彼の世」の春のどのあたりを、ゆったりと「長旅」していらっしゃるだろうか。合掌。「槙」231号(2000)所載。(八木忠栄)


April 0742009

 山桜咲く山の木に囲まれて

                           名村早智子

のところ入学式にはすっかり葉桜になってしまうほど桜の時期が早まってしまったが、今年は開花宣言から雪が降るような思わぬ寒さが続いたせいか、いまだ満開とずいぶんと見応えがある。あらゆる樹木のなかで、もっとも人間に近いような気がする桜だが、山中にひっそりと佇む山桜となると人の気配もぐっと薄れ、白々とつつましく、そしてもちろん野趣も持ち合わせる。ソメイヨシノに代表される里桜は、花だけが吹き出すように咲き満ち、その豊満な美しさは絶景でもあるが、圧迫感に胸が塞がれる思いもするものだ。一方、山桜は花のかたわらにつやつやとした紅色の幼葉を伴うことで、全体の輪郭をやわらげ、花の咲く木としての自然な構えがことさら好ましく思える。木漏れ日のなか、山の雑木に紛れ咲く桜には、家族に囲まれた器量よしの娘のような、素顔の輝きがこぼれている。〈芽吹きつつ木は木の容思ひ出す〉〈叱られて金魚の水を替へてをり〉『山祇』(2009)所収。(土肥あき子)


April 0642009

 泣きに来し裏川いまも花筏

                           中野きみ

歌にセンチメンタルな感情を込めるのは、意外に難しい。込め過ぎるとあざとくなり、さらっとしすぎると読者は感情移入できなくなる。そのあたりを、この句は程よくクリアーできていると思った。「花筏(はないかだ)」は、散った桜の花びらが水に浮かんで流れて行く様を,筏に見たてたものだ。裏の川に泣きに来たのは、もうずいぶんと昔の少女時代のこと。何がそんなに哀しかったのか。誰にも涙を見せたくなかったので、川淵に来てひとり泣いたことはよく覚えている。あのときも涙でぼやけてはいたけれど、いま眼前を行くのと同じように花びらの帯が流れていたっけ。純真だった、いや純粋過ぎたあの頃。毎年春になれば、こうして花筏は同じように流れて行くが、もうあの頃の自分は帰ってこないのだ。美しい花筏に触発されて、作者はしばし心地よい感傷に浸っている。そして、私という読者もまた……。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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