ハモニカを買いたくなったけれど、なかなか売っている店が見つかりません。(哲




2009ソスN4ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1242009

 ふらここを降り正夢を見失う

                           塩野谷仁

語は「ふらここ」、春です。要はブランコのことですが、俳句を読んでいると、日常では決して使わない、俳句だけの世界で生きている語彙に出くわします。たとえば蛍のことを、「ほうたる」とも言うようですが、はじめてそれを見たときには、なんとも不可思議な感覚を持ちました。「ふらここ」という語も、意味がわかった後も、どうしても別のものを連想してしまいます。平安時代から使われていた和語だと言われても、いったんそうなってしまうと、なかなかそのものが頭から離れてくれないのです。それはともかく、今日の句です。一番目立っているのは「正夢」の一語でしょうか。言うまでもなく、将来現実になる夢のことです。これだけで、句全体を覆うだけの抒情が生み出されています。ところが作者は、それをもう一ひねりして、「正夢を見失う」としています。それによって読者は、想像をたくましくせざるを得なくなります。ブランコに乗っている間は、しっかりと胸に抱えていた正夢が、地上に降りた途端に失われてしまう。まるで現実と夢の境に綱をたらして、ひとしきり揺れてきたかのようです。「俳句」(2009年4月号)所載。(松下育男)


April 1142009

 本当の空色の空朝桜

                           永野由美子

の朝桜は、少し濡れているような気がする。それは昨夜の雨なのか、朝靄の名残なのか。満開にはまだ少し間のある、紅のぬけきらない桜。ときおり花を激しく揺らす鳥の姿も見える。朝の光を散らす桜に透ける空を仰ぎながら作者は、ああ日本の空の青だ、と思ったのだろう。本当の空色がどんな色なのか、それを考えてみたところであまり意味はない。二人で一緒に空を仰いでいても、私の青空とあなたの青空は違うだろうし、それを確かめる術はない。ただ、その青空がくれる心地よさを共有していれば幸せだ。別に空が青いくらいで幸せになんかならない、という人はそれでもいい。ああ、そんな気持ちになったことがある、という人はその青空を思い出すかもしれない。それぞれである。開花してから一気に暖かくならなかった東京の桜、やや潔さに欠けつつ終わってゆく。それも勝手な言いぐさだなと、アスファルトの上を行き所なく転がる花屑を、謝るような御礼を言うような気持ちで見送っている。俳誌「阿蘇」(2008・七月号)所載。(今井肖子)


April 1042009

 からうじて鶯餅のかたちせる

                           桂 信子

餅が色のみならず形も鶯に似せているということを初めて知った。あの餅のかたちのどこが似てるんじゃと驚いたが、こういう句をみるとわが意を得たりである。「いづれが尾いづれが嘴やうぐひす餅 矢島久栄」という句もあるから同じことを思った人もいるのだろう。この句の一番の特徴は副詞の使い方にある。「少し」「やうやく」「たまさか」などの副詞は擬音、擬態語と並んで常套的な用い方をすれば陳腐な情緒を押し出す働きをする。この句の「からうじて」は鶯餅というものの形状の特徴を見事に捉えている。花神コレクション『桂信子』(1992)所収。(今井 聖)




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