フランス語講座。そろそろ置いていかれそうになる関門に。ふんばらねば。(哲




2009ソスN4ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1542009

 甕埋めむ陽炎くらき土の中

                           多田智満子

ゆえに甕を土のなかに埋めるのか――と、この場合、余計な詮索をする必要はあるまい。「何ゆえに」に意味があるのではなく、甕を埋めるそのこと自体に意味があるのだ。しかし、土を掘り起こして甕をとり出すというのではなく、逆に甕を埋めるという行為、これは尋常な行為とは言いがたい。何かしら有形無形のものを秘蔵した甕であろう。あやしい胡散臭さが漂う。陽炎そのものが暗いというわけではあるまいが、もしかして陽炎が暗く感じられるかもしれないところに、どうやら胡散臭さは濃厚に感じられるとも言える。陽炎ははかなくて頼りないもの。そんな陽炎がゆらめく土を、無心に掘り起こしている人影が見えてくる。春とはいえ、土のなかは暗い。この句をくり返し眺めていると、幽鬼のような句姿が見えてくる。智満子はサン=ジョン・ペルスの詩のすぐれた訳でも知られた詩人で、短歌も作った。俳句は死に到る病床で書かれたもので、死の影と向き合う詩魂が感じられる。それは決して悲愴というよりも、持ち前の“知”によって貫かれている。157句が遺句集『風のかたみ』としてまとめられ、2003年1月の告別式の際に配られた。ほかに「身の内に死はやはらかき冬の疣」「流れ星我より我の脱け落つる」など、テンションの高い句が多い。詩集『封を切ると』付録(2004)所収。(八木忠栄)


April 1442009

 切絵師の肩にてふてふとまりけり

                           加古宗也

絵師の技を目の当たりにしたことが二度ある。一度目は、北海道の「やまざき」というバーで、マスターに横顔をするするっと切り絵で作っていただいた。白い紙を切り抜くだけで、しかしそれはたしかに似顔絵なのだった。二度目は寄席の紙切り芸で、客席からのリクエストに即座になんでも応えていた。こちらは輪郭というより、つながり合った線が繊細な形をなして、そして切り抜かれた紙もまた反転する絵になっている見事なものだった。切り絵はなにより風を嫌うため、室内の景色であり、掲句にも蝶は通常いてはならないものだ。鋏の先から繰り出される万象は、平面でありながらその細密さに驚いたり、生々しさに魅入ったりするのだが、そこへ生というにはあまりに簡単なかたちの蝶が舞っていることは、意外な偶然というより、妙な胸騒ぎを覚えることだろう。ひらひらと切絵師にまとわりつく蝶は、切絵師が作品にうっかり命を吹き込んでしまったかのように見えたに違いない。〈朝刊でくるんでありし芽うどかな〉〈快晴といふよろこびに茶を摘める〉『花の雨』(2009)所収。(土肥あき子)


April 1342009

 ぴいぴい昭和のテレホンカード鳥雲に

                           望月たけし

衆電話をかけている。「ぴいぴい」は、むろんテレホンカードの出し入れの際に鳴る機械音だ。この音を鳥の鳴き声にかけてあるのかとも思ったが、いささか無理がある。それよりも、人が電話をかけるときの視線に注目した。ダイヤルや文字盤に電話番号を登録してから相手が出る迄のわずかな時間、たいていの人は所在なげに上方を見上げて待つ。この間、ダイヤルを睨んだままで待つ人は少ないだろう。作者も何気なく空を見上げたところ、偶然にも北に帰って行く鳥影が見えたのである。ここでごく自然に、作者と空とが結びつく。ああ、もうそんな季節なのか。束の間、去り行くものへの愛惜の念が胸をよぎる。そう言えば、このテレホンカードも去って行った昭和のものだ。電話をかけ終わると、また「ぴいぴい」とカードが鳴いた。機械的な音だけれど、それが今はなんだかいとおしいような感じを受ける。そこで作者はもう一度、はるかな空を見上げたに違いない。何気ない現代の日常的な行為を巧みに捉えた、去り行くものへの挽歌である。「ぴいぴい」が実に良く効いている。一読、後を引く。これが「現代俳句」というものだろう。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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