「フケイキっていうのに、人が多いわネエ」。街中で老女が話しかけてきた。(哲




2009ソスN4ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1742009

 顔振つて童女駆けゆく桜ごち

                           岡本 眸

ちは東風のこと。ひとの句を見て才能を感じるところは、自分だったらこう書けるだろうかというのが基準。この句の「見せ場」は「顔振つて」だ。それは誰しも認めるところだろう。この表現が発見されるか否かが秀句と駄句の分水嶺だ。そして、これを発見した喜びのあまり、凡俗はここで安心して「少女」か「少年」を持ってくるだろう。「少年」は字余りだからやはり「少女」かもしれない。一般的情緒が読者を納得させるだろうし、既に「見せ場」は抑えてある。「少女」をもってくる動機は十分だ。しかし、本当の才能はここからだ。「童女」は正真正銘の才能を感じさせる。少女という言葉が女性の年齢的な範囲を曖昧にしか示せないことと、駆けゆく少女がいかに手垢にまみれたロマンへの入口になるかを熟知している作者は「少女」を忌避し、「童女」を用いたのだ。勝負が決まったと思われた時点でもうひとつ上の段階が待っている。季題「桜ごち」は童女が駆けてゆく風景の構成での一般性を意識している。「写生派」を選択した俳人は「一般性」を完全に捨て去ることは難しい。講談社版『新日本大歳時記』(2000)所収。(今井 聖)


April 1642009

 たんぽぽの井戸端会議に参加する

                           薮ノ内君代

休みに会社のまわりを散歩していると古いビルを取り壊した更地のあちこちにたんぽぽが咲いているのが目につく。すぐに駐車場や新しいビルの工事が始まる短い間だけど、地面があれば明るく黄色い花を咲かせ白い綿毛にのせて種を飛ばすのだろう。本当にたくましくて、可愛い花だ。「たんぽぽの」の「の」に軽い切れを含ませて二句一章で読むと、たんぽぽは後景に退いて、道端に集まっている井戸端会議に作者が参加しているともとれる。私としては群がって咲いているたんぽぽの井戸端会議に自分もたんぽぽになって参加していると想像するのが楽しい。春だもの。ぽかぽかと暖かい野原にうとうと居眠りしているうちにたんぽぽになってしまうかもしれない。意外なところにひょいと非日常への出入り口ができる。その言葉の扉を探すのも俳句を読む楽しみの一つだろう。『風のなぎさ』(2007)所収。(三宅やよい)


April 1542009

 甕埋めむ陽炎くらき土の中

                           多田智満子

ゆえに甕を土のなかに埋めるのか――と、この場合、余計な詮索をする必要はあるまい。「何ゆえに」に意味があるのではなく、甕を埋めるそのこと自体に意味があるのだ。しかし、土を掘り起こして甕をとり出すというのではなく、逆に甕を埋めるという行為、これは尋常な行為とは言いがたい。何かしら有形無形のものを秘蔵した甕であろう。あやしい胡散臭さが漂う。陽炎そのものが暗いというわけではあるまいが、もしかして陽炎が暗く感じられるかもしれないところに、どうやら胡散臭さは濃厚に感じられるとも言える。陽炎ははかなくて頼りないもの。そんな陽炎がゆらめく土を、無心に掘り起こしている人影が見えてくる。春とはいえ、土のなかは暗い。この句をくり返し眺めていると、幽鬼のような句姿が見えてくる。智満子はサン=ジョン・ペルスの詩のすぐれた訳でも知られた詩人で、短歌も作った。俳句は死に到る病床で書かれたもので、死の影と向き合う詩魂が感じられる。それは決して悲愴というよりも、持ち前の“知”によって貫かれている。157句が遺句集『風のかたみ』としてまとめられ、2003年1月の告別式の際に配られた。ほかに「身の内に死はやはらかき冬の疣」「流れ星我より我の脱け落つる」など、テンションの高い句が多い。詩集『封を切ると』付録(2004)所収。(八木忠栄)




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