勤務先のある早稲田の街・高田馬場は新入生でいっぱい。飲屋もいっぱい。(哲




2009ソスN4ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2042009

 朝寝して敗者に似たる思ひあり

                           菅原けい

語は「朝寝」で「春眠」に分類。父が早起きの性だったことと農家だったことで、子供の頃から早起きだった。起床は遅くとも午前六時。それ以上寝ていると、父に容赦なく布団をひっぺがされた。それが性癖となってしまい、夜明け前に起きるのはへっちゃら。と言うよりも、太陽が顔を出す前に自然に目がさめてしまうようになったのである。おかげで、後年ラジオの朝番組のときには大いに役立った。しかし、何かの拍子に、起きると外が少し明るい朝もある。そんなときは、この句の作者のようにみじめな気分になってしまう。「ああ、シッパイした」などとつぶやいたりする。なんとなく損したような気分なのだ。この句はたぶんそんな早起き人間にしかわからないだろうが、少しくらい朝寝したからといって、別に生活に支障があるわけじゃなし、どうしてみじめな気持ちになってしまうのか。自分の意思とかかわりないところで、性癖が崩れることに漠然とした不安を覚えるからなのだろうか。三十代でやむをえずフリーという名の失業者になったときには、早起きの自分にいささか辟易させられた。早く起きたってすることもないので、それまでなら出勤する時間まで何もせずに過ごしていたのだが、これがなかなかに辛かった。早起きは習い性だったけれど、朝の時間に読書とか何かをする習慣はなかったからだ。たまらなくなったので、机の前に次の江戸狂歌を大きく書いて貼っていた時期がある。「世の中に寝るほど楽はなかりけり 浮世の馬鹿は起きてはたらく」。座右の銘のつもりであった。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


April 1942009

 窓ぎわの花に眠気の容疑あり

                           村井和一

とえば人前でスピーチをするときには、下手なジョークを入れずに、場に合った内容の話を、ひたすらまじめに伝えることに終始したほうが、間違いがありません。句を読む時にも、それと同じことが言えるのではないでしょうか。まじめに詠まれた句は、その句がどのように読者に受けとめられるかということに、それほど神経をつかう必要はありません。しかし、多少でも「おふざけ」の要素が入った句は、かなり慎重に読者の受け止めかたを見極めておかないと、とんでもないことになります。本日の句も、「容疑あり」の一語で、大きな危険を冒しています。しかし結果としては、とんでもないことにはならなかったようです。のんびりとした休日の午後、窓際の椅子に座って、好きな音楽でも聴いていたのでしょうか。そのうちにうつらうつらと、心地よい眠気が襲ってきています。この眠気はほかでもないこの花のせいではないかと、他愛のない言いがかりを付けているのです。気がつけば「容疑あり」の一語は、「窓ぎわ」や「花」に負けないほどに、春の明るさを伝えてくれています。「俳句界」(2009年4月号)所載。(松下育男)


April 1842009

 ふらここに坐れば木々の集まれり

                           井上弘美

寄駅を出るとすぐ、通勤電車の車窓にこんもりと木々が見え、ああ、また丘がふくらんできたなあ、と実感している。この丘は公園になっていて、不必要な整備が好きな私の住む区にしては、木も地面もまあそのままの貴重な場所だ。その広い公園の端に、すべり台やぶらんこなど遊具が置かれている一画がある。人がいないのを見計らって、逆上がりをしてみたりぶらんこを思いきり漕いだりするのだが、ちょうど今頃がぶらんこには心地よいかも、とこの句を読んで思う。萌え始めた木々に囲まれたぶらんこを遠くから見ている作者。ゆっくりと近づいてぶらんこの前に立つ。体の向きを変え、鎖をつかみながら、その不確かな四角に腰を乗せ、空を仰いだ途端、ぶらんこを囲んでいる木々に包みこまれたような気持ちになったのだろう。そして風をまといつつ、しばらく揺られていたに違いない。〈うらがへりうらがへりゆく春の川〉〈野遊びの終りは貝をひらひけり〉など春の句で終わる句集の最後の一句は〈大いなる夜桜に抱かれにゆく〉。『汀』(2008)所収。(今井肖子)




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