毒物カレー事件。裁判員制度の下での裁判だったら判決はどうなっただろう。(哲




2009ソスN4ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2342009

 珈琲や湖へ大きな春の虹

                           星野麥丘人

琲は作者自身によってブラックとルビが振ってある。珈琲(ブラック)や、と濃く熱く入れた飲み物に詠嘆しているわけで、しかも珈琲を飲んでいる眼前の湖に淡く大きな虹がかかっている。阿部青鞋に「天国へブラック珈琲飲んでから」という句があったように思うが、この句は青鞋の思いに答えたかのような色合いである。春の虹は夏の虹に比べると色も淡く、たちまちのうちに消えてしまう性質を持っているようだが、それだけに美しく名残惜しいものだろう。ゆっくりと珈琲を飲み終わるころには虹は失せて、すっかり元の光景に戻っているのかもしれない。麥丘人(ばくきゅうじん)の句は事実だけを述べているようで、なんともいえない老年の艶のようなものがあり、この句も口に入れると淡々と解ける和菓子のような味わいだ。日々の生活に追われるなかで麥丘人の句を読むと肩の力がほんの少し抜けるような気がする。『燕雀』(1999)所収。(三宅やよい)


April 2242009

 つじかぜやつばめつばくろつばくらめ

                           日夏耿之介

は「つばくろ」「つばくら」「つばくらめ」などとも呼ばれ、「乙鳥(おつどり)」「玄鳥(げんちやう)」とも書かれる。「燕」は夏の季語とまちがわれやすいけれど、春の季語である。しかも「燕の子」だと夏の季語となり、「燕帰る」は秋の季語となる。それだけ四季を通じて、私たちに親しまれ、珍重されてきた身近かな鳥だということなのであろう。さて、耿之介の詩句には、たとえば「神の聖座に熟睡(うまい)するは偏寵(へんちょう)の児(うなゐ) われ也/人畜(もの)ありて許多(ここだく)に寒夜(かんや)を叫ぶ……」という一例がある。漢語の多用や独自な訓読など、和漢洋の語彙を夥しく散りばめた異色の詩のスタイルで知られた耿之介が、反動のように平仮名だけで詠ったのが掲出句。しかも春の辻風つまり旋風に煽られて、舞うがごとく旋回するがごとく何羽もの燕たちが勢いよく飛び交っている情景だろう。燕は空高くではなく低空を素早く飛ぶ。「つばめつばくろつばくらめ」と重ねることによって、燕たちがたくさん飛んでいる様子がダイナミックに見えてくる。勢いのある俳句である。俳号は黄眠。『婆羅門俳諧』など二冊の句集があり、「夏くさやかへるの目玉神のごとし」という句もある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 2142009

 いくらでも眠れる体サイネリア

                           三好万美

前「夕方ちょっと眠るつもりが起きたら朝だった」という失敗談をしていたら、「眠るのも若さ」と言われたことがある。たしかに加齢とともに、少しの物音にも目覚めてしまうことが多くなった。いくらでも眠れる掲句の身体は、春のけだるさとともに、健やかな若さも表現している。また、いつまでも眠り続ける「いばら姫(眠れる森の美女)」の眠りは、魔法使いの呪いによるものであり、りんごを喉に詰まらせた白雪姫が柩に横たわる姿を王子は「まるで眠っているようだ」とつぶやく。これらの寓話は、眠り続ける姿と禍々しい死はごく親しいものがあると感じさせる。一方キク科のサイネリアの花言葉は「いつも快活」。その名の通り、春そのもののようなカラフルな花との取り合せに、一瞬残るわだかまりは、眠りの底に流れている薄気味悪さをひっそりと引き出すことに成功しているからだろう。〈犬は腹見せ合い眠る桃の村〉〈わたくしを呼んだか振り向けば椿〉『満ち潮』(2009)所収。(土肥あき子)




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