April 272009
酒好きのわれら田螺をみて育ち
館岡誠二
酒の肴としてよく出てくる「田螺(たにし)」を、私は食べられない。いや、食べない。理由は、句の男たちのように「田螺をみて」育ったからだ。育った土地に食べる風習がなかったこともあって、田螺は食べるものではなく、いつだって見るものだった。待ちかねた春を告げる生き物のひとつだった。冬眠から目覚めた田螺たちが、田んぼのなかで道を作るようにかすかに動いていく様子を眺めるのが好きだった。田螺が出てくる頃は、もうあたりはすっかり春で、田螺をみつめる時間には同時に日向ぼこの心地よさがあった。私ばかりではなく、昔の遊び仲間たちもよく屈みこむようにして飽かず眺めていたものである。そんなふうに、往時には道端などで何かを熱心にみつめて屈みこんでいる子供がいたものだったが……。句の男たちもそんなふうに育ってきて、いまやいっちょまえの酒飲みになっている。そんな彼らの前に、田螺が出てきたのだろう。が、誰も箸をつけようとはせず、田螺を見た子供時代の思い出を肴に飲んでいる図だ。この場に私がいたとすれば、「幼なじみを食うわけにはいかねえよ、なあ」とでも言ったところである。大人になってからの同級会を思い出した。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)
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