2009N5句

May 0152009

 歯に咬んで薔薇のはなびらうまからず

                           加藤楸邨

あ、まさしく楸邨の世界だ。句の世界のここちよい、整った「完成度」など最初から度外視。薔薇にまつわる従来のロマンの世界も一顧だにされない。薔薇嗅ぐ、薔薇抱く、薔薇剪る、薔薇渡す、薔薇挿す、薔薇買う…僕らは薔薇のこれまでの集積した情緒を利用し、そこにちょっとした自分をトッピングしようとする。その根性がもうだめなんだとこのものすごい失敗作は教えてくれる。五感を動員して得られたその瞬間の「自分」をどうしてもっと信頼しない。そこが無くしてどうして自己表現、ひいては自分の生の刻印があろうか。楸邨は眼前の薔薇を実感するためについには薔薇を口に入れて「うまからず」とまで言わねば気すまない。一般性、共感度、日本的美意識。そんなものは鼻っから考えてもいない。それらがあたまの隅にあったとしても、対象から得られる自分だけの「実感」が最優先だ。こういう句を俳諧の「滑稽」で読み解こうとするひとがいたらヘボだ。『吹越』(1976)所収。(今井 聖)


May 0252009

 お祈りをして遠足のお弁当

                           山田閏子

ただしく始まった新学期も、オリエンテーション、新入生歓迎会、遠足などを経て、ゴールデンウィークで一息。つい数日前も、真新しい黄色い帽子が二人ずつ手をつなぎ、あとからあとから曲がり角からあふれてきた。千代田区の小学校も結構人数が多いなあ、と思いながら、小さいリュックの背中を見送ったが、そんな遠足の列を詠んだ句はよく見かける。この句は、最大の楽しみであるところのお弁当タイム。ミッション系のおそらく一年生で、さほど大人数ではないだろう。芝生の上に思い思いに坐って開いたお弁当を前に、日頃そうしているように小さい手を合わせ、お祈りの言葉をつぶやいてから、大きく「いただきます」。かわいい。描かれているのは、日差しや草の匂い、囀りに似たおしゃべりと笑い声、それを見ている作者の幸せ。お祈り、お弁当、二つの丁寧語があたたかい。句集のあとがきに、「平凡な主婦の生活の中で、俳句に佇んでいる自分自身を見つけることができた」とある。俳句との関わり方も句作態度も、こうあらねばならない、ということはない、それぞれだと思う。『佇みて』(2008)所収。(今井肖子)


May 0352009

 日をたたむ蝶の翅やくれの鐘

                           望月宋屋

は「つばさ」と読みます。句を読んでまず目に付いたのが「たたむ」の文字でした。今更とは思うものの、手元の辞書を引けば「たたむ」の意味は、「広げてある物を折り返して重ねる。折って小さくまとめる。」とあります、なんだか辞書の説明文がそのまま詩になってしまいそうな、詩歌向きのきれいな語です。望月宋屋(そうおく)の生きていた江戸期にも、「たたむ」は今のようなひそやかさをたたえた語だったのでしょうか。少なくともこの句に使われている様子から想像するに、数百年の時の流れは、語の姿になんら影響を与えることはなかったようです。「日をたたむ」の「たたむ」は「店をたたむ」のように「やめてしまう」の意味。もちろん「たたむ」は「蝶の翅をたたむ」ことにも通じていて、こちらは「すぼめる」の意味でしょうか。さらにくれの鐘の音が「日をたたむ」にもかかってきて、きれいな言葉たちは句の中で、何重にも手をつなぎあっています。そうそう、「心にたたむ」という言葉もありました。もちろん意味は、「好きな人を心の中に秘めておく」という意味。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


May 0452009

 にんげんに吠える草あり春の山

                           鈴木光彦

語「春の山」といえば、春風駘蕩、まことにおだやかなたたずまいの山をイメージさせる。たいていの句は、そのようなイメージから作られてきた。だが、作者はそんな常識的なイメージを踏まえつつも、山という自然はそうそう人間の都合の良い解釈や見立てどおりにはならないことを知っている。一見やわらかくおだやかな色彩で私たちを招くかのごとき春の「草」のなかにも、突然「吠えかかって」くるような凶暴さを示す草だってあるのだ。とりわけて他に誰もいない山中にあるときなど、少し強い風が出てくると、丈の高い雑草の群れがざわあっという感じで揺れる様子には、どこか不気味な恐さを感じるものだ。「にんげん」の卑小を感じる一瞬である。「そよぐ」という言葉には、漢字で「戦ぐ」と当て、「戦」には「おそれおののく」の意もあって、これはそういう意識につながっているのかもしれない。その意味からも、掲句は既成の季語に対する反発、吠えかかりなのであるが、山をよく見て詠んだ至極忠実な写生句ともなっている。句作りで安易に季語に寄り掛かるなという警鐘としても、拳拳服膺する価値があるだろう。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研研究)所載。(清水哲男)


May 0552009

 したたかに濡るる一樹やこどもの日

                           川村五子

日「こどもの日」。子供はいつ見ても濡れているように思う。お日さまの下、やわらかい髪を汗で貼りつけ、駆け回っているイメージがあるからだろうか。それはまるで、太陽を浴びることでスイッチが入り、汗をかくことで一ミリずつぐんぐんと成長しているかのように。掲句の一本の樹は健やかに発育する子供の象徴であり、そこにはそれぞれの未来へと向かうしなやかなまぶしい手足が見えてくる。強か(したたか)とは、人格を表すときには図太いとか狡猾など、長所として使われることはないが、一旦人間を離れ、自然界へ置き換えた途端に、その言葉はおおらかに解き放たれる。掲句の核心でもある「したたかに濡るる」にも、単に雨上がりの樹木を描くにとどまらず、天の恵みの雨に存分に浄められ、つやつやと滴りを光らせている枝葉が堂々と立ち現れる。初夏の鮮やかな木々が、世界を祝福していると感じられる甘美なひとときである。〈空容れてはち切れさうな金魚玉〉〈朝顔の全き円となりにけり〉『素顔』(2009)所収。(土肥あき子)


May 0652009

 落梅の多少の径や夏に入る

                           安西冬衛

時記の「立夏」には、傍題として「夏に入る」「今朝の夏」「夏来たる」等々がある。立夏は陽暦の5月6日頃とされる。つまり暦の上での夏は、今日あたりから立秋8月8日の前日頃までということになる。♪卯の花のにおう垣根にホトトギス……夏は来ぬ。掲出句では卯の花ではなくて落梅である。「梅」は春の季語だが、「落梅」は歳時記にはないようだ。「青梅」や「梅干す」となると夏。「落梅」には「散る梅の花」の意もある。けれども、ここでは「落ちた梅の実」の意である。梅の花につづいて桜の花も散りはてた新緑のこの時季、梅の木の下で見上げると、もうかわいい青梅が葉かげに幾粒も寄り合っている。季節の移り変わりと植物の律儀さには、改めて感心させられる。「径」はこみちとか山路などの意味がある。こみちを歩いていて、ふと梅の木の下にいくらかの梅の実がパラパラと落ちているのを発見して、思わず「ああ、もう夏か」という驚きを、今さらのように噛みしめているのである。「落梅」と「夏に入る」のとり合わせがとてもすがすがしい。安西冬衛と言えば、春に「韃靼海峡」を越えた「てふてふ」は、今頃どのあたりを飛んでいるのだろうか? どんな虫になったか?―――と想像をめぐらしてみたくなる。冬衛が残した俳句は少ないが、ほかに「喰積の減らでさびしき二日かな」という新年の句もある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 0752009

 夏野原ねこのしっぽはまっすぐに

                           わたなべじゅんこ

こまでも広がる夏野の真ん中をぴんとしっぽを立てて歩いてゆく猫。単純な構図がたっぷりとした空間を想像させて気持ちがいい。亜熱帯が原産の猫にこれから訪れる夏は似合いの季節かもしれない。この頃は野良犬を見かけないが、路地裏に、家々の隙間に野良ネコたちはあいかわらず自由に元気だ。猫も犬もしっぽに表情があって、元気がない時はだらりと垂れ下がって、見るからに情けない。尾っぽの先が曲がっていたり、丸まって短いのもいるけど、猫の感情表現にしっぽは欠かせない。身近にいる犬を見ているとしっぽを立てているのは自信たっぷりに他の犬に近づいたり、喜びいさんで散歩に出かけるときのように思うが猫はどうなのだろう。掲句の猫は夏野をわたって自分の家に帰るところなのか、それともどこか遠くに自分の居場所を見つけにいくのか。ぴんと立てたしっぽの気持ちを想像してみるのも楽しい『seventh_heaven@』(2008)所収。(三宅やよい)


May 0852009

 白粉を鼻に忽ち祭の子

                           深見けん二

正な句。品格といってもいい。気品のようなものの出処をあれこれと思うのだが、表現内容はさることながら、切れにその要因があるように思った。「白粉を鼻に」でちょっと切れる。一拍短く置いて、「忽ち」に繋がる。意味からいってそこで切れるが、「写生」の被写体の動きとも時間的に並行してゆく。ぱたぱたと白粉を鼻に塗られ、一拍あって、さあ、祭の子の出来上がりである。祭の子の装いや化粧などを詠んだ句は山ほどあるけれど、この切れが文体のオリジナルを強調し、そこに品格が生じる。繊細丁寧で欲を見せない自然体。『蝶に会ふ』(2009)所収。(今井 聖)


May 0952009

 言葉にて受けし傷膿む薔薇の苑

                           寺井谷子

が、いただいた鉢植えの薔薇を、ほんの1平方メートルほどの玄関先の植え込みに移したのが一昨年。水やり以外特に手入れもしていないというが、ずっと咲き続けている。花弁は緑がかった淡黄色、中心はほのと薄紅色を巻きこんでいるが、開くと緑が勝つ。小ぶりで、雨が降ると少し香り、どこかそっけない不思議な野性味を感じさせる薔薇だ。今年もいよいよ盛りとなってきたそんな薔薇を、朝な夕な見つつ掲出句に出会った。苑に咲くこの句の薔薇は、圧倒的な深紅だろう。果実のような色と香りに、思いがけずよみがえる痛み。突き刺さった言葉の棘をそっとぬいて傷口をなめて、深く閉じ込めてしまったはずの痛みだ。上手に忘れたはずなのに、思いがけないきっかけで、ありありとよみがえる記憶にやりきれない心持ちになることがある。忘れることは、生きていくためにもっとも必要な能力のひとつだけれど、記憶をコントロールすることは難しい。傷は治ったわけじゃない、深いところで膿んでいるのだ、と言葉にする強さを持つ作者の、大輪の薔薇のように凛とした姿が思われる。『笑窪』(1986)所収。(今井肖子)


May 1052009

 女學院前にて揚羽見失ふ

                           浅井一志

語は「揚羽」、夏です。揚羽蝶の大ぶりな美しさは、たしかに夏の季節にふさわしく感じられます。この句に惹かれたのは、なんと言っても「女學院」の一語ゆえでしょうか。目の前をさきほどから、まるで自分の行く先について行くように、派手な柄の蝶が舞っています。その姿に見とれながら歩いていたのが、つい見失ってしまい、気がつけばそこは女学院の前だったというわけです。生の真っ只中での、揚羽蝶と女学生のいきいきとした美しさが、見事に競い合っています。たしかに見失った場所が別のところだったなら、このようなくっきりと鮮やかな句にはならなかったでしょう。ペギー葉山の歌を持ち出すまでもなく、学生の日々の出来事や友人を思い出せば、いつも同じ場所の切なさにたどりつきます。その心情はまさに、いつまでもまとわりつく蝶のようでもあり、目で追い続けていたのは蝶の姿と、遠く懐かしい日々だったのです。「俳句」(2009年4月号)所載。(松下育男)


May 1152009

 おばさんのような薔薇園につかれる

                           こしのゆみこ

はは、ホントホント。毎年夏になると、バスで十五分ほどの神代植物公園に出かけるが、この季節の目玉は薔薇園である。全部で三十万輪も咲くというから、壮観だ。現代薔薇の始祖とされる貴重な「ラ・フランス」も咲いてくれる。それはそれで結構なのだけれど、見ているうちにどんどん疲れが増幅してくるのは何故なのか。いつも不可思議に思っていたが、掲句を読んで納得できたように思う。言われてみれば、何かの拍子におばさんたちの輪の中に入ってしまったときの疲れように、確かに似ている。中高年女性を一口で「おばさん」と括ってしまうことの是非は置くとして、総じておばさんなる人たちは押しの強いのが特徴だ。饒舌であれ寡黙であれ、彼女たちの自己主張ぶりには辟易させられることが多い。とにかく無視は許されない雰囲気がある。だから、会話には気を使う。あちらを立てたら、こちらも立てなければならない。薔薇だって同じこと。豪華な花もあるし、清楚に通じるそれもある。でも、そのいずれもが、押しの強さでは負けていない。お互いに妍を競いつつ、こちらの顔色をじいっとうかがっているように見えてしまう。疲れるのは当たり前なのである。しかも、この句は同性の作だ。してみると、おばさんたちは同性の仲間内にあっても、男と同じように疲れるというわけか。いやはやご苦労さんとでも言うしかないけれど、意地悪な句のようであって、そうではないくすくす笑いを誘うところに、作者の人柄を垣間見たような気がした。『コイツァンの猫』(2009)所収。(清水哲男)


May 1252009

 裁ち台のウエディングドレス風薫る

                           長谷川祥子

夏を過ぎ、梅雨に入るまでの東京の気温と湿度は、わずかに高原の夏にも似た快適さを感じることができる貴重な一ヵ月である。一年のなかでもっとも清潔感あふれる陽気ではないかと思う。明るい日差しに、緑の香を濃く溶いた風を、半袖になったばかりの腕に受けるのは、まるでミントの葉が添えられたアイスクリームのように心地よい。そしてその明るさは、木陰の闇を一層意識させるまぶしさでもある。掲句の裁ち台に置かれているのが、未完成のウエディングドレスであることに大きく胸が波立った。初夏の風は窓辺のカーテンを船の帆のようにふくらませたあと、純白のサテンやシフォンが渦巻くなかに、紛れ込んだのだ。何の樹、何の花とも判然としないが、しかしはっきりと含まれる芳香が、結婚という儀式のおごそかな美しさと、ほのかな秘密の気配を引き寄せる。まだ形をなしていないなめらかな生地が丁寧に裁断され、縫い合わされ、ゆっくりと六月の花嫁を包むウエディングドレスになっていく。『野外奏』(2008)所収。(土肥あき子)


May 1352009

 深川や低き家並のさつき空

                           永井荷風

五「深川や」のすべり出しで、下町の景色がパノラマのように広がる。もちろんノッポやデブの建物などない時代、かつての下町風景である。しかも五月晴れの空が果てしなく広がっている。初夏の空気はどこまでも澄んでいただろうし、時間もゆったり刻まれていたことだろう。五月晴れの空の下に、肩寄せ合っている「低き家並(やなみ)」がうれしい。そこに慎ましい日々を、マメに営む人々の姿も見えてくるようだ。「さつき」は「早苗月」の略とするのが一般的だそうである。江東区深川は下町の代表とされる。地名のおこりは、江東の湿地帯を開拓した深川八郎右衛門にちなんでいるとか。隅田川と荒川にはさまれて、運河や小さな川などが縦横に走る一帯である。小石川生まれの荷風が好んで浅草や深川あたりを逍遥し、数々の名作や日記を残したことは改めて記すまでもない。さつきを詠んだ荷風の句に「青梅の屋根打つ音や五月寒」がある。風景の広がりを詠んだ掲出句に対し、こちらの句は音を詠んでいる。今年は荷風没後五十年。好んで郊外を散歩したわけを、荷風は「平生、胸底に往来している感想によく調和する風景を求めて、瞬間の慰謝にしたいため」と書き残している。『荷風句集』(1948)所収。(八木忠栄)


May 1452009

 朴の花朝の卵を二つ割る

                           河西志帆

京では日中、夏のように暑い日が続いたけれどひんやり、さっぱりした朝晩の空気はこの季節ならではのもの。毎年開くのを楽しみにしている近所の泰山木の花はまだ固い蕾だけど朴の花が咲くのはいつごろだろう。「群生する梢の先に黄白色の大きな花を開く」と歳時記にあるが、朴の葉は大きく茂るので、下から見上げても花の全容は定かでないだろう。それでも泰山木と同じく青空に凛と咲く立ち姿を想像するのも味わいがある。「二つ割る」は卵の数であって、卵を二つに割るという意味ではないのだけど、卵をボールに割りおとしときの黄味の盛り上がりとぱかんと割れた卵の殻が朴の花のイメージと重なる。初夏の爽やかな朝の空気と新鮮な卵を割りおとしたときの感覚がよくマッチしていて気持ちがいい。卵を割る何気ない日常の動作と朴の花。どこか手放せない新鮮な印象がこの取り合わせから生まれている。『水を朗読するように』(2008)所収。(三宅やよい)


May 1552009

 累々として今生の実梅たり

                           廣瀬直人

事な句と思う。累々というのだから実梅が地に落ちている情景。「たり」には一個一個の存在感が意図されている。「今生」つまりただ一回きりの自分の生の或る瞬間の風景として実梅を見ている。品格も熟達の技術も一句の隅々まで行渡っている。ところで、今生の或る瞬間の風景として、たとえば自転車や自動車やネジやボルトやパソコンやテレビや机や椅子が「累々」としていては「今生」を意識できないか。できないとするならばなぜかというのが僕の中で持続している問題意識。「今生」の実感を引き出すのに「実梅」が持っている季語としてのはたらきや歴史的に累積してきた「俳句的情趣」が不可欠なのかどうかということ。特段に自然の草木の中に身を置かずとも僕らが日常見聞きし感じている万象の中にこそ「今生」の実感を得る契機は無数に用意されているのではないか。病床六尺の中にいて「今生」の実感を詠った子規が生きていたら聞いてみたいのだが。『新日本大歳時記』(2000)所収。(今井 聖)


May 1652009

 白菖蒲みにくき蝶のはなれざる

                           竹内留村

菖蒲とあるので、いわゆる花菖蒲。もう咲き始めている。花菖蒲の紫は色濃く、大和紫とでもいいたくなるようなしっとりとした風合いだが、そこに混ざって咲く白は、初夏の日差しを受けてひときわまぶしい。まっすぐな葉と茎の上に、ゆるやかな花がひらひら咲く姿、それ自身が蝶のようにも見えるが、そこに白い蝶が見え隠れしている。みにくい芋虫から美しい蝶になったはずが、みにくき蝶とは気の毒だが、同じ白でも動物と植物、かたや体液が通い、かたや水が通っている。強くなってきた日差しと風に、少し疲れた蝶。明日には、菖蒲田の水にその姿を沈めるかもしれない。そんな蝶に、どことなく愛着も感じているのだろう。ひらがなの中の、白菖蒲と蝶、ふたつの白が交錯してゆれている。句集には、〈毛を風に吹かせて毛虫涼しげに〉という句もありこちらは、あまり好かれることがなく句の中ではたいてい焼かれている毛虫が気持ちよさそうで、なんだかうれしくなる。『柳緑花紅』(1996)所収。(今井肖子)


May 1752009

 大の字に寝て涼しさよ淋しさよ

                           小林一茶

茶の句はなぜこれほどわかりやすいのかと、あらためて思います。変な言い方ですが、どうもこれは普通のわかりやすさではなくて、異常なわかりやすさなのです。わかりやすさも極めれば、感動につながるようなのです。ずるいわかりやすさなのかもしれません。「淋しさよ」と、直接詠っています。いったい一茶はどれだけ淋しいといえば気がすむのかと、文句を付けたくなりますが、なぜか納得させられてしまうのです。体の部位や姿勢が、悲しみや淋しさに結びつくことは、だれでもが知っています。なぜなら悲しみや淋しさを感じるのは、ほかでもない自分の体だから。この句では姿勢(大の字)を涼しさに結び付けて、さらに付け加えるようにして淋しさに付けています。淋しいとき人はどうするだろう。むしろ身をかがめて膝を抱えるものではないのか、といったんは思いはするものの、いえそれほどに単純なものではなく、身を広げても、広がりの分だけの淋しさを、ちゃんと与えられてしまうようです。『新訂俳句シリーズ・人と作品 小林一茶』』(1980・桜楓社)所収。(松下育男)


May 1852009

 筍と若布のたいたん君待つ日

                           連 宏子

の命は「たいたん」という関西言葉だ。関東言葉に直せば「煮物」であるが、これではせっかくの料理の「味」が落ちてしまう(笑)。この句には、坪内稔典・永田和宏による『言葉のゆくえ』(2009・京都新聞出版センター)で出会った。出会った途端に、美味しそうだなと唾が湧いてきた。ただし関西訛りで読めない人には、お気の毒ながら、句の味がきちんとはわからないだろう。同書で、稔典氏は書いている。「女性がやわらかい口調で『たいたん』と発音すると、筍と若布のうまみが互いにとけあって、えもいえぬ香りまでがたちこめる感じ。『たいたん』は極上の関西言葉なのだ」。ついでに言っておけば、関東ではご飯以外にはあまり「炊く」を使わないが、関西では関東の「煮る」のように米以外の調理にも頻繁に使う。冬の季語である「大根焚(だいこたき)」は京都鳴滝の了徳寺の行事だから、やはり「煮」ではなく「焚(炊)」でなければならないわけだ。同じ作者で、もう一句。「初蝶や口にほり込む昔菓子」。これも「ほうり込む」では、情景的な味がでない。言葉の地方性とは、面白いものである。なお、掲句の季節は「筍」に代表してもらって夏季としておいた。『揺れる』(2003)所収。(清水哲男)


May 1952009

 蝉の羽化はじまつてゐる月夜かな

                           大野崇文

は満ち欠けする様子や、はっきりと浮きあがる模様などから、古今東西神秘的なものとして見られている。また、タクシードライバーが持つ安全手帳には、満月の夜に注意することとして「不慮の事故」「怪我」「お産」と書かれていると聞いたことがある。生きものの大半が水分でできていることなどを考えると、月の引力による満潮や干潮の関係などにも思い当たり、あながち迷信妄信と切り捨てられないようにも思う。蝉が何年もの間、長く暮らした土中から、必ず真夜中に地上に出て、夜明けまでに羽化するのは、月からの「いざ出でよ」のメッセージを受けているのではないのか。地中から出た蝉の背を月光がやわらかに割り、新しい朝日が薄い羽に芯を入れる。今年のサインを今か今かと待つ蝉たちが、地中でそっと耳を澄ましているのかと思わず足元を見つめている。〈ラムネ玉こつんと月日還りけり〉〈蟻穴を出づる大地に足を掛け〉『夕月抄』(2008)所収。(土肥あき子)


May 2052009

 鶯のかたちに残るあおきな粉

                           柳家小三治

は「春告鳥」とか「花見鳥」とも呼ばれるように、季語としては通常は春である。けれども、東北や北海道では夏鳥とされ、「老鶯」の場合は晩春から夏にかけてとされるのだから、この時季にとりあげてもよかろう。鶯はきれいに啼く声や鮮やかな鶯色、つまり声と色彩に注目して詠われることが多い。俳句では「鶯」の一語に、すでに「啼いている鶯」の意味がこめられているから、「啼く鶯」とも「鶯啼く」とも詠む必要はない。小三治は、ここでは鶯の「かたち」から入って、青黄粉の「あお」に到っている。そこに注目した。餅か団子にまぶして食べた青黄粉が、皿の上にでもたまたま残った、そのかたちが鶯のかたちに似ていることにハッと気づいたのであろう。青豆を碾いた青黄粉の色は鶯色に近いし、そのかたちに可愛らしさが感じられたのであろう。黄粉も青黄粉も、今は和菓子屋でなければ、なかなかお目にかかれなくなった。この投句があった東京やなぎ句会の席に、ゲストで参加していた鷹羽狩行はこの句を“天”に選んだという。そして「すばらしい。歳時記を出す時には〈鶯餅〉の例句に入れたい」とまで絶賛したと、狩行は書いている。青黄粉といえば、落語に抹茶とまちがえて青黄粉と椋の皮を使ったことで爆笑を呼ぶ「茶の湯」という傑作がある。その噺が小三治の頭をちらりとかすめていたかも……。小沢昭一『友あり駄句あり三十年』(1999)所収。(八木忠栄)


May 2152009

 愛鳥の週に最たる駝鳥立つ

                           百合山羽公

鳥週間の休日、御岳山の茶店の餌台に向日葵の種をつつきに来た山雀を見かけた。オレンジ色の胸が可愛い。バードウィークと言えば山雀や四十雀のように可憐な野鳥を思い浮かべるが、その視線をすっとはずして、飛べない駝鳥を登場させたところがこの句の眼目だろう。駝鳥は大きい。駝鳥の卵も大きい。肉の味が牛肉に似ているとかで駝鳥を飼育する牧場も生まれたようだけど、お尻をふりふり駆けてゆくあのユーモラスな姿を思い浮かべると食べるのはちょっとかわいそうな気がする。熱帯の土地でこの鳥がどんな生活を営んでいるのかよく知らないが、厳しい日差しと他の動物から卵を守るのに、オス、メス交代でじっと座って卵を暖めるらしい。大きくてやさしい駝鳥が鳥の最たるものとして立ち、うるんだ瞳で人間たちを見返している。『百合山羽公集』(1977)所収。(三宅やよい)


May 2252009

 たべのこすパセリのあをき祭かな

                           木下夕爾

七の連体形「あをき」は下五の「祭かな」にかからずパセリの方を形容する。この手法を用いた文体はひとつの「鋳型」として今日的な流行のひとつとなっている。もちろんこの文体は昔からあったもので、虚子の「遠山に日の当りたる枯野かな」も一例。日の当たっているのは枯野ではなくて遠山である。独特の手法だが、これも先人の誰かがこの形式に取り入れたものだろう。こういうかたちが流行っているのは花鳥諷詠全盛の中でのバリエーションを個々の俳人が意図するからだろう。この手法を用いれば、掛かるようにみせて掛からない「違和感」やその逆に、連体形がそのまま下五に掛かる「正攻法」も含めて手持ちの「球種」が豊富になる。今を旬の俳人たちの中でも岸本尚毅「桜餅置けばなくなる屏風かな」、大木あまり「単帯ゆるんできたる夜潮かな」、石田郷子「音ひとつ立ててをりたる泉かな」らは、この手法を自己の作風の特徴のひとつとしている。夕爾は1965年50歳で早世。皿の上のパセリの青を起点に祭の賑わいが拡がる。映像的な作品である。『木下夕爾の俳句』(1991)所収。(今井 聖)


May 2352009

 万緑のひとつの幹へ近づきぬ

                           櫻井博道

京の緑を見て万緑を詠んじゃいけないよ、と言われたことがある。万の緑、見渡す限りの緑であるから、まあ確かにそうなのかもしれない。それでも、時々訪れる目黒の自然教育園など夏場は、これが都心かと思うほどの茂りである。どこかの島の、圧倒的な緑の森に迷い込んだような錯覚に陥りながら歩いていると、星野立子の〈恐ろしき緑の中に入りて染まらん〉の句を思い出す。「万緑」は、それだけで強い力を感じる言葉なので確かに、万緑や、などと言ってしまうと後が続かなくてただぼーっとしてしまって、なかなか一句になりにくい。そんな万緑も、大地に根を張った確かな一本一本の木からできている。森を来た作者の視線の先には今、一本の大樹の太い幹があるばかりだが、読者には、作者が分け入ってきた、それこそ万の緑がありありと見えてくる。ひとつの、の措辞が、万に負けない力を感じさせる。『図説俳句大歳時記 夏』(1964・角川書店)所載。(今井肖子)


May 2452009

 月に柄をさしたらばよき団扇かな

                           山崎宗鑑

崎宗鑑は戦国時代の連歌師・俳諧作者です。生計は主に「書」で立てていたということです。今日の句は、読んでいただければわかる通り、内容はしょうもないといえば確かにしょうもない。月に柄(え)を付ければ団扇(うちわ)のようだ、この暑い夜に涼やかな風を送ってくれないものか、とでもいう内容でしょうか。だれしも月を見上げて、ちょっと考えれば、似たような発想はいくらでも出てきます。串をさせば団子にも例えられ、障子にあけた覗き窓にも例えられる。今なら「子供の詩」にでも出てきそうな、単純で素朴な例えです。でも、そう言ってしまっては、宗鑑にも、今の子供にもたいへん失礼にあたるかもしれません。どれほど高邁な文学の発想であれ、つきつめれば月を団扇に見たてたものと、さほどの違いがあるわけではありません。珍しい発想ではないけれども、いえ、ありふれているからこそ個人にすっと入ってくるのです。どうしてこんなものに惹かれるのかという疑問をもちつつも、600年も昔に考えられたものからさほどに進歩していない自身の感性を、いとおしくも感じるわけです。卑俗に徹し、ともかく威張っていないところが、とても好ましく。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


May 2552009

 水音は草の底より蛇苺

                           ふけとしこ

のように田舎で育った人間には、ごく当たり前の情景ではあるが、それだけにいっそうの郷愁を呼び起こしてくれる句だ。細い山道を歩いていたりすると、どこからか水の流れる音が聞こえてくる。周囲には雑草が繁茂しているので、小さな流れは「草の底」にあって見えないのである。そんな山道には、ところどころに「蛇苺」が真っ赤な実をもたげている。この苺は食べてはいけないことになっていたからか、路傍に鮮やかでもどこかよそよそしく見える。しかも私には、蛇苺は日を遮られた薄暗い場所を好むという印象があるので、情景は一種陰気な情感を醸し出す。それがかえって、もうほとんど忘れかけていたかつての自分のあれこれまでをも想起させることになった。この情景をいま、たとえばビデオカメラで撮影してくっきりと蘇らせることは可能だ。でも、それは句のようには郷愁につながってはいかないだろう。なぜなら、ビデオカメラには水の音や蛇苺の姿を忠実に再生する力はあっても、あくまでもそれは人為的に切り取った断片的な情報以上の情報をもたらさないからである。このあたりに、文芸の力がある。句はたしかに情景を切り取ってはいるのだけれど、しかし、それは切り取った情景以上の時間や空間をいっしょに連れて来るものだからだ。掲句にも、切り取られた情景よりもはるかに多量の情報がつまっている。この点を肯定しなければ、第一、俳句のような短い様式は根本から成立しなくなってしまう。言葉とは、面白いものである。最近、蛇苺を見ない。『インコに肩を』(2009)所収。(清水哲男)


May 2652009

 今生を滝と生まれて落つるかな

                           岩岡中正

調な山の景色のなかで、ふいに水音が高まり、唐突に目の前が開ける場所。そこに滝はある。足元ばかり見続けていた視線が大きく動かされることや、清冽な自然の立てる轟音、そして正面から浴びる豊富なマイナスイオン効果もあいまって、五感のすべてが澄みわたる気分になっていく。掲句の「今生」とは、この世。滝を前にして、ひたむきに水を落し続ける滝に吸い込まれるように魅了される。岩間から湧いた清水であったことや、この先海を目指している水の生い立ちなど一切構わず、眼前の水とのみ対峙すれば、滝上から身を投げ、深淵に泡立つまでの距離が現世として迫ってくる。この一瞬こそが滝の一生。葛飾北斎の「諸国滝廻り」では8箇所の滝が描かれているが、流れ落ちる水の様子がひとつずつまったく違うのに驚かされる。あるものは身をくねらせ、またあるものは天空から身を踊らせる。そしてそのどれも大きな眼が隠された生きもののように見えてくる。北斎もまた、落ちる水にわが身を重ねるようにして描く魅入られた人であった。『春雪』(2008)所収。(土肥あき子)


May 2752009

 ひねれば動く電気仕掛の俳句かな

                           小林恭二

句は思うように、満足のいく作品はなかなかできない。ひねってもたたいても、なかなか……。いっそ電気仕掛でポンとできあがる俳句というものがないものか。四苦八苦した挙句にできたのが掲出句かもしれない。シロウトはシロウトなりに、専門家は専門家なりに、そんな空想にあそぶこともあろう。苦しまぎれのわりにつらい句ではない。むしろユーモラスに仕上がっているのはさすがである。いや、四句八句して戯れながらできた俳句かもしれない。無季句だが、春夏秋冬を通じて電気仕掛を所望したい気持ちを読みとることができる。「電気仕掛」が懐かしい響きをともなって愉快ではないか。たしかに電気文化の時代があったよなあ。今どきなら「コンピューター仕掛」とでもなるのだろうけれど、二十年ほど前の作ゆえ「電気」。「電気仕掛」が切実でありながら、同時にユーモラスな電磁波を放っている。俳句は「詠む」とも「ひねる」とも言われる。世におびただしい俳句が日々量産されているけれど、「ひねれば動く電気仕掛」とは、飽くことなく量産されている俳句に対する、強烈なアイロニーを含んでいるようにも解釈できる。恭二の初期句集『春歌』には「遊戯する胸に皺ある怪獣よ」「はっきり言ふお前は異常な日時計だ」など、奔放な無季句がいくつもおどっている。『春歌』(1991)所収。(八木忠栄)


May 2852009

 浮苗に記憶はじめの夕日射

                           宮入 聖

か三島由紀夫が産湯につかった盥のふちが金色に光るのを覚えていると『仮面の告白』に書いていたように思う。自分自身の「記憶はじめ」を遡ってみると、親から繰り返し聞かされた話や古ぼけたアルバムの映像が入り混じってどれを「記憶はじめ」にしていいやら自信がない。ただ、記憶をたどるその先に夢と区別のつかないぐらい曖昧ではあるが、対象をはっきりと見ている自分が確かに感じられる。自他の区別なく渾然一体としていた世界が自分と外の世界にある距離感を生じることが「記憶はじめ」なのかもしれない。田植えが終わったあと、しっかりと根が固定されずに頼りなく浮いている苗にふと目をとめた作者。ほかの苗が整然と直立しているからこそ浮き沈みする苗に視線が釘付けになり、頭の中の記憶が揺らされるように思ったのだろう。田水を金色に光らす夕日射が記憶の隅に焼き付けられた浮苗と重なったのかもしれない。記憶はじめとする一枚の映像にその人の美意識が感じられる。『聖母帖』(1981)所収。(三宅やよい)


May 2952009

 爆笑せしキャンプファイアーの跡と思ふ

                           加倉井秋を

ャンプ地で焚火の痕跡があればキャンプファイアーの跡だと思うのは当然。そんなのは発見でも何でもない。この句は「爆笑せし」という捉え方に詩の核心がある。爆笑せしはキャンプファイアーにかかるけれど、キャンプファイアーは跡にかかっているから爆笑せしは詰まるところ跡にかかる。爆笑せし跡。つまり作者は焚火の痕跡をみて爆笑の声を思っているのである。焚火跡は視覚。臭いもするから嗅覚も混じる。爆笑は聴覚。つまりこの句は視覚と嗅覚を入口にして聴覚に到る。人間の五感の即時的な反応がそのまま言葉に載せられている。これを機智と見るのは少し違う。「知」よりも「感覚」が優先される。しかも三つの別次元の感覚を力技でひとつにまとめ「思ふ」に引き込むのは「知」を超えた才能そのもの。角川書店編『第三版俳句歳時記』(2004)所収。(今井 聖)


May 3052009

 麦秋の縮図戻して着陸す

                           藤浦昭代

は夏に実りの季節を迎えるので、麦秋(ばくしゅう・むぎあき)は夏季。陰暦四月の異称でもあるという。二十年近く前、一面の麦畑に北海道で出会ったことがある。確か夏休みで7月だった。黄金色のからりとした風と草の匂いに、あ〜麦酒が飲みたい、と連想はそちらに行ってしまったが、風景ははっきり記憶にある。掲出句の作者は、ところどころに麦畑がある街から、初夏の旅に出たのだろう。少し傾きながら離陸する窓の中、みるみるうちに小さくなる家や畑。見渡す限りの緑に囲まれて、あちこちに光る麦畑が、遠くなるほどいっそうくっきり見える。上空からならではの、その離陸の時の感動を抱えたまま旅を終え、無事に着陸。縮図を戻しながら、色彩のコントラストと、何度体験しても慣れない着陸時のスリリングな心持ちを体感した。『ホトトギス新歳時記』(1986・三省堂)所載。(今井肖子)


May 3152009

 物申の声に物着る暑さかな

                           横井也有

申(ものもう)と読みます。今なら「ごめんください」とでもいうところでしょうか。いえ、今なら呼び鈴のピンポンなのでしょう。マンション暮らしの長い私には、人が声をあげて訪ねてくる場面には、ほとんど出くわしません。子供たちが小さな頃でさえ、「遊びましょ」という呼びかけを、聞いたことがありません。訪ねてきた人は、子供であろうと大人であろうと、いつも同じ大きさの「ピンポン」です。そこには特段の思い入れが入る余地はありません。この句を読んで思ったのは、「普段着」のことでした。昔はたしかに、家の中にいるときには夏でなくてもひどい格好をしていました。国ぜんたいが貧しかった頃ですから、子供だったわたしはそれほど気にしていませんでしたが、思い出せばいつも同じの、きたない服を着ていました。夏はもちろん冷房などはなく、この句にあるように、暑さに耐えるためには服を脱ぐしかありませんでした。今は真夏でも、人が訪ねてくればともかく、すぐに会える姿をしています。それがあたりまえのことではなかったのだと、この句はあらためて思い出させてくれます。一瞬の動作と、時代を的確に描ききっています。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)




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