今日立夏。夏は来ぬ。静かな連休がつづいています。雨もまた良しか。(哲




2009ソスN5ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0552009

 したたかに濡るる一樹やこどもの日

                           川村五子

日「こどもの日」。子供はいつ見ても濡れているように思う。お日さまの下、やわらかい髪を汗で貼りつけ、駆け回っているイメージがあるからだろうか。それはまるで、太陽を浴びることでスイッチが入り、汗をかくことで一ミリずつぐんぐんと成長しているかのように。掲句の一本の樹は健やかに発育する子供の象徴であり、そこにはそれぞれの未来へと向かうしなやかなまぶしい手足が見えてくる。強か(したたか)とは、人格を表すときには図太いとか狡猾など、長所として使われることはないが、一旦人間を離れ、自然界へ置き換えた途端に、その言葉はおおらかに解き放たれる。掲句の核心でもある「したたかに濡るる」にも、単に雨上がりの樹木を描くにとどまらず、天の恵みの雨に存分に浄められ、つやつやと滴りを光らせている枝葉が堂々と立ち現れる。初夏の鮮やかな木々が、世界を祝福していると感じられる甘美なひとときである。〈空容れてはち切れさうな金魚玉〉〈朝顔の全き円となりにけり〉『素顔』(2009)所収。(土肥あき子)


May 0452009

 にんげんに吠える草あり春の山

                           鈴木光彦

語「春の山」といえば、春風駘蕩、まことにおだやかなたたずまいの山をイメージさせる。たいていの句は、そのようなイメージから作られてきた。だが、作者はそんな常識的なイメージを踏まえつつも、山という自然はそうそう人間の都合の良い解釈や見立てどおりにはならないことを知っている。一見やわらかくおだやかな色彩で私たちを招くかのごとき春の「草」のなかにも、突然「吠えかかって」くるような凶暴さを示す草だってあるのだ。とりわけて他に誰もいない山中にあるときなど、少し強い風が出てくると、丈の高い雑草の群れがざわあっという感じで揺れる様子には、どこか不気味な恐さを感じるものだ。「にんげん」の卑小を感じる一瞬である。「そよぐ」という言葉には、漢字で「戦ぐ」と当て、「戦」には「おそれおののく」の意もあって、これはそういう意識につながっているのかもしれない。その意味からも、掲句は既成の季語に対する反発、吠えかかりなのであるが、山をよく見て詠んだ至極忠実な写生句ともなっている。句作りで安易に季語に寄り掛かるなという警鐘としても、拳拳服膺する価値があるだろう。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研研究)所載。(清水哲男)


May 0352009

 日をたたむ蝶の翅やくれの鐘

                           望月宋屋

は「つばさ」と読みます。句を読んでまず目に付いたのが「たたむ」の文字でした。今更とは思うものの、手元の辞書を引けば「たたむ」の意味は、「広げてある物を折り返して重ねる。折って小さくまとめる。」とあります、なんだか辞書の説明文がそのまま詩になってしまいそうな、詩歌向きのきれいな語です。望月宋屋(そうおく)の生きていた江戸期にも、「たたむ」は今のようなひそやかさをたたえた語だったのでしょうか。少なくともこの句に使われている様子から想像するに、数百年の時の流れは、語の姿になんら影響を与えることはなかったようです。「日をたたむ」の「たたむ」は「店をたたむ」のように「やめてしまう」の意味。もちろん「たたむ」は「蝶の翅をたたむ」ことにも通じていて、こちらは「すぼめる」の意味でしょうか。さらにくれの鐘の音が「日をたたむ」にもかかってきて、きれいな言葉たちは句の中で、何重にも手をつなぎあっています。そうそう、「心にたたむ」という言葉もありました。もちろん意味は、「好きな人を心の中に秘めておく」という意味。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)




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