普段の生活が戻ってきます。連休のおかげで腰の痛みもやわらいできました。(哲




2009ソスN5ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0752009

 夏野原ねこのしっぽはまっすぐに

                           わたなべじゅんこ

こまでも広がる夏野の真ん中をぴんとしっぽを立てて歩いてゆく猫。単純な構図がたっぷりとした空間を想像させて気持ちがいい。亜熱帯が原産の猫にこれから訪れる夏は似合いの季節かもしれない。この頃は野良犬を見かけないが、路地裏に、家々の隙間に野良ネコたちはあいかわらず自由に元気だ。猫も犬もしっぽに表情があって、元気がない時はだらりと垂れ下がって、見るからに情けない。尾っぽの先が曲がっていたり、丸まって短いのもいるけど、猫の感情表現にしっぽは欠かせない。身近にいる犬を見ているとしっぽを立てているのは自信たっぷりに他の犬に近づいたり、喜びいさんで散歩に出かけるときのように思うが猫はどうなのだろう。掲句の猫は夏野をわたって自分の家に帰るところなのか、それともどこか遠くに自分の居場所を見つけにいくのか。ぴんと立てたしっぽの気持ちを想像してみるのも楽しい『seventh_heaven@』(2008)所収。(三宅やよい)


May 0652009

 落梅の多少の径や夏に入る

                           安西冬衛

時記の「立夏」には、傍題として「夏に入る」「今朝の夏」「夏来たる」等々がある。立夏は陽暦の5月6日頃とされる。つまり暦の上での夏は、今日あたりから立秋8月8日の前日頃までということになる。♪卯の花のにおう垣根にホトトギス……夏は来ぬ。掲出句では卯の花ではなくて落梅である。「梅」は春の季語だが、「落梅」は歳時記にはないようだ。「青梅」や「梅干す」となると夏。「落梅」には「散る梅の花」の意もある。けれども、ここでは「落ちた梅の実」の意である。梅の花につづいて桜の花も散りはてた新緑のこの時季、梅の木の下で見上げると、もうかわいい青梅が葉かげに幾粒も寄り合っている。季節の移り変わりと植物の律儀さには、改めて感心させられる。「径」はこみちとか山路などの意味がある。こみちを歩いていて、ふと梅の木の下にいくらかの梅の実がパラパラと落ちているのを発見して、思わず「ああ、もう夏か」という驚きを、今さらのように噛みしめているのである。「落梅」と「夏に入る」のとり合わせがとてもすがすがしい。安西冬衛と言えば、春に「韃靼海峡」を越えた「てふてふ」は、今頃どのあたりを飛んでいるのだろうか? どんな虫になったか?―――と想像をめぐらしてみたくなる。冬衛が残した俳句は少ないが、ほかに「喰積の減らでさびしき二日かな」という新年の句もある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 0552009

 したたかに濡るる一樹やこどもの日

                           川村五子

日「こどもの日」。子供はいつ見ても濡れているように思う。お日さまの下、やわらかい髪を汗で貼りつけ、駆け回っているイメージがあるからだろうか。それはまるで、太陽を浴びることでスイッチが入り、汗をかくことで一ミリずつぐんぐんと成長しているかのように。掲句の一本の樹は健やかに発育する子供の象徴であり、そこにはそれぞれの未来へと向かうしなやかなまぶしい手足が見えてくる。強か(したたか)とは、人格を表すときには図太いとか狡猾など、長所として使われることはないが、一旦人間を離れ、自然界へ置き換えた途端に、その言葉はおおらかに解き放たれる。掲句の核心でもある「したたかに濡るる」にも、単に雨上がりの樹木を描くにとどまらず、天の恵みの雨に存分に浄められ、つやつやと滴りを光らせている枝葉が堂々と立ち現れる。初夏の鮮やかな木々が、世界を祝福していると感じられる甘美なひとときである。〈空容れてはち切れさうな金魚玉〉〈朝顔の全き円となりにけり〉『素顔』(2009)所収。(土肥あき子)




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