新型インフル感染者。お気の毒としか言いようがないが回復後の世間の応接も心配。(哲




2009ソスN5ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1152009

 おばさんのような薔薇園につかれる

                           こしのゆみこ

はは、ホントホント。毎年夏になると、バスで十五分ほどの神代植物公園に出かけるが、この季節の目玉は薔薇園である。全部で三十万輪も咲くというから、壮観だ。現代薔薇の始祖とされる貴重な「ラ・フランス」も咲いてくれる。それはそれで結構なのだけれど、見ているうちにどんどん疲れが増幅してくるのは何故なのか。いつも不可思議に思っていたが、掲句を読んで納得できたように思う。言われてみれば、何かの拍子におばさんたちの輪の中に入ってしまったときの疲れように、確かに似ている。中高年女性を一口で「おばさん」と括ってしまうことの是非は置くとして、総じておばさんなる人たちは押しの強いのが特徴だ。饒舌であれ寡黙であれ、彼女たちの自己主張ぶりには辟易させられることが多い。とにかく無視は許されない雰囲気がある。だから、会話には気を使う。あちらを立てたら、こちらも立てなければならない。薔薇だって同じこと。豪華な花もあるし、清楚に通じるそれもある。でも、そのいずれもが、押しの強さでは負けていない。お互いに妍を競いつつ、こちらの顔色をじいっとうかがっているように見えてしまう。疲れるのは当たり前なのである。しかも、この句は同性の作だ。してみると、おばさんたちは同性の仲間内にあっても、男と同じように疲れるというわけか。いやはやご苦労さんとでも言うしかないけれど、意地悪な句のようであって、そうではないくすくす笑いを誘うところに、作者の人柄を垣間見たような気がした。『コイツァンの猫』(2009)所収。(清水哲男)


May 1052009

 女學院前にて揚羽見失ふ

                           浅井一志

語は「揚羽」、夏です。揚羽蝶の大ぶりな美しさは、たしかに夏の季節にふさわしく感じられます。この句に惹かれたのは、なんと言っても「女學院」の一語ゆえでしょうか。目の前をさきほどから、まるで自分の行く先について行くように、派手な柄の蝶が舞っています。その姿に見とれながら歩いていたのが、つい見失ってしまい、気がつけばそこは女学院の前だったというわけです。生の真っ只中での、揚羽蝶と女学生のいきいきとした美しさが、見事に競い合っています。たしかに見失った場所が別のところだったなら、このようなくっきりと鮮やかな句にはならなかったでしょう。ペギー葉山の歌を持ち出すまでもなく、学生の日々の出来事や友人を思い出せば、いつも同じ場所の切なさにたどりつきます。その心情はまさに、いつまでもまとわりつく蝶のようでもあり、目で追い続けていたのは蝶の姿と、遠く懐かしい日々だったのです。「俳句」(2009年4月号)所載。(松下育男)


May 0952009

 言葉にて受けし傷膿む薔薇の苑

                           寺井谷子

が、いただいた鉢植えの薔薇を、ほんの1平方メートルほどの玄関先の植え込みに移したのが一昨年。水やり以外特に手入れもしていないというが、ずっと咲き続けている。花弁は緑がかった淡黄色、中心はほのと薄紅色を巻きこんでいるが、開くと緑が勝つ。小ぶりで、雨が降ると少し香り、どこかそっけない不思議な野性味を感じさせる薔薇だ。今年もいよいよ盛りとなってきたそんな薔薇を、朝な夕な見つつ掲出句に出会った。苑に咲くこの句の薔薇は、圧倒的な深紅だろう。果実のような色と香りに、思いがけずよみがえる痛み。突き刺さった言葉の棘をそっとぬいて傷口をなめて、深く閉じ込めてしまったはずの痛みだ。上手に忘れたはずなのに、思いがけないきっかけで、ありありとよみがえる記憶にやりきれない心持ちになることがある。忘れることは、生きていくためにもっとも必要な能力のひとつだけれど、記憶をコントロールすることは難しい。傷は治ったわけじゃない、深いところで膿んでいるのだ、と言葉にする強さを持つ作者の、大輪の薔薇のように凛とした姿が思われる。『笑窪』(1986)所収。(今井肖子)




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