やっと勝った、阪神。なにがなんでもタイガースMBS Radio、今日も頑張れ。(哲




2009ソスN5ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2452009

 月に柄をさしたらばよき団扇かな

                           山崎宗鑑

崎宗鑑は戦国時代の連歌師・俳諧作者です。生計は主に「書」で立てていたということです。今日の句は、読んでいただければわかる通り、内容はしょうもないといえば確かにしょうもない。月に柄(え)を付ければ団扇(うちわ)のようだ、この暑い夜に涼やかな風を送ってくれないものか、とでもいう内容でしょうか。だれしも月を見上げて、ちょっと考えれば、似たような発想はいくらでも出てきます。串をさせば団子にも例えられ、障子にあけた覗き窓にも例えられる。今なら「子供の詩」にでも出てきそうな、単純で素朴な例えです。でも、そう言ってしまっては、宗鑑にも、今の子供にもたいへん失礼にあたるかもしれません。どれほど高邁な文学の発想であれ、つきつめれば月を団扇に見たてたものと、さほどの違いがあるわけではありません。珍しい発想ではないけれども、いえ、ありふれているからこそ個人にすっと入ってくるのです。どうしてこんなものに惹かれるのかという疑問をもちつつも、600年も昔に考えられたものからさほどに進歩していない自身の感性を、いとおしくも感じるわけです。卑俗に徹し、ともかく威張っていないところが、とても好ましく。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


May 2352009

 万緑のひとつの幹へ近づきぬ

                           櫻井博道

京の緑を見て万緑を詠んじゃいけないよ、と言われたことがある。万の緑、見渡す限りの緑であるから、まあ確かにそうなのかもしれない。それでも、時々訪れる目黒の自然教育園など夏場は、これが都心かと思うほどの茂りである。どこかの島の、圧倒的な緑の森に迷い込んだような錯覚に陥りながら歩いていると、星野立子の〈恐ろしき緑の中に入りて染まらん〉の句を思い出す。「万緑」は、それだけで強い力を感じる言葉なので確かに、万緑や、などと言ってしまうと後が続かなくてただぼーっとしてしまって、なかなか一句になりにくい。そんな万緑も、大地に根を張った確かな一本一本の木からできている。森を来た作者の視線の先には今、一本の大樹の太い幹があるばかりだが、読者には、作者が分け入ってきた、それこそ万の緑がありありと見えてくる。ひとつの、の措辞が、万に負けない力を感じさせる。『図説俳句大歳時記 夏』(1964・角川書店)所載。(今井肖子)


May 2252009

 たべのこすパセリのあをき祭かな

                           木下夕爾

七の連体形「あをき」は下五の「祭かな」にかからずパセリの方を形容する。この手法を用いた文体はひとつの「鋳型」として今日的な流行のひとつとなっている。もちろんこの文体は昔からあったもので、虚子の「遠山に日の当りたる枯野かな」も一例。日の当たっているのは枯野ではなくて遠山である。独特の手法だが、これも先人の誰かがこの形式に取り入れたものだろう。こういうかたちが流行っているのは花鳥諷詠全盛の中でのバリエーションを個々の俳人が意図するからだろう。この手法を用いれば、掛かるようにみせて掛からない「違和感」やその逆に、連体形がそのまま下五に掛かる「正攻法」も含めて手持ちの「球種」が豊富になる。今を旬の俳人たちの中でも岸本尚毅「桜餅置けばなくなる屏風かな」、大木あまり「単帯ゆるんできたる夜潮かな」、石田郷子「音ひとつ立ててをりたる泉かな」らは、この手法を自己の作風の特徴のひとつとしている。夕爾は1965年50歳で早世。皿の上のパセリの青を起点に祭の賑わいが拡がる。映像的な作品である。『木下夕爾の俳句』(1991)所収。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます