トンカツ屋でキャベツの千切りが一皿100円也。まこと世知辛い世の中です。(哲




2009ソスN5ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2752009

 ひねれば動く電気仕掛の俳句かな

                           小林恭二

句は思うように、満足のいく作品はなかなかできない。ひねってもたたいても、なかなか……。いっそ電気仕掛でポンとできあがる俳句というものがないものか。四苦八苦した挙句にできたのが掲出句かもしれない。シロウトはシロウトなりに、専門家は専門家なりに、そんな空想にあそぶこともあろう。苦しまぎれのわりにつらい句ではない。むしろユーモラスに仕上がっているのはさすがである。いや、四句八句して戯れながらできた俳句かもしれない。無季句だが、春夏秋冬を通じて電気仕掛を所望したい気持ちを読みとることができる。「電気仕掛」が懐かしい響きをともなって愉快ではないか。たしかに電気文化の時代があったよなあ。今どきなら「コンピューター仕掛」とでもなるのだろうけれど、二十年ほど前の作ゆえ「電気」。「電気仕掛」が切実でありながら、同時にユーモラスな電磁波を放っている。俳句は「詠む」とも「ひねる」とも言われる。世におびただしい俳句が日々量産されているけれど、「ひねれば動く電気仕掛」とは、飽くことなく量産されている俳句に対する、強烈なアイロニーを含んでいるようにも解釈できる。恭二の初期句集『春歌』には「遊戯する胸に皺ある怪獣よ」「はっきり言ふお前は異常な日時計だ」など、奔放な無季句がいくつもおどっている。『春歌』(1991)所収。(八木忠栄)


May 2652009

 今生を滝と生まれて落つるかな

                           岩岡中正

調な山の景色のなかで、ふいに水音が高まり、唐突に目の前が開ける場所。そこに滝はある。足元ばかり見続けていた視線が大きく動かされることや、清冽な自然の立てる轟音、そして正面から浴びる豊富なマイナスイオン効果もあいまって、五感のすべてが澄みわたる気分になっていく。掲句の「今生」とは、この世。滝を前にして、ひたむきに水を落し続ける滝に吸い込まれるように魅了される。岩間から湧いた清水であったことや、この先海を目指している水の生い立ちなど一切構わず、眼前の水とのみ対峙すれば、滝上から身を投げ、深淵に泡立つまでの距離が現世として迫ってくる。この一瞬こそが滝の一生。葛飾北斎の「諸国滝廻り」では8箇所の滝が描かれているが、流れ落ちる水の様子がひとつずつまったく違うのに驚かされる。あるものは身をくねらせ、またあるものは天空から身を踊らせる。そしてそのどれも大きな眼が隠された生きもののように見えてくる。北斎もまた、落ちる水にわが身を重ねるようにして描く魅入られた人であった。『春雪』(2008)所収。(土肥あき子)


May 2552009

 水音は草の底より蛇苺

                           ふけとしこ

のように田舎で育った人間には、ごく当たり前の情景ではあるが、それだけにいっそうの郷愁を呼び起こしてくれる句だ。細い山道を歩いていたりすると、どこからか水の流れる音が聞こえてくる。周囲には雑草が繁茂しているので、小さな流れは「草の底」にあって見えないのである。そんな山道には、ところどころに「蛇苺」が真っ赤な実をもたげている。この苺は食べてはいけないことになっていたからか、路傍に鮮やかでもどこかよそよそしく見える。しかも私には、蛇苺は日を遮られた薄暗い場所を好むという印象があるので、情景は一種陰気な情感を醸し出す。それがかえって、もうほとんど忘れかけていたかつての自分のあれこれまでをも想起させることになった。この情景をいま、たとえばビデオカメラで撮影してくっきりと蘇らせることは可能だ。でも、それは句のようには郷愁につながってはいかないだろう。なぜなら、ビデオカメラには水の音や蛇苺の姿を忠実に再生する力はあっても、あくまでもそれは人為的に切り取った断片的な情報以上の情報をもたらさないからである。このあたりに、文芸の力がある。句はたしかに情景を切り取ってはいるのだけれど、しかし、それは切り取った情景以上の時間や空間をいっしょに連れて来るものだからだ。掲句にも、切り取られた情景よりもはるかに多量の情報がつまっている。この点を肯定しなければ、第一、俳句のような短い様式は根本から成立しなくなってしまう。言葉とは、面白いものである。最近、蛇苺を見ない。『インコに肩を』(2009)所収。(清水哲男)




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