折り畳み傘にするか、それとも普通の傘にするか。これが毎朝の「問題」だ。(哲




2009ソスN6ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0962009

 かうしてはをれぬ毛虫が食べつくす

                           林 菊枝

年前、チャドクガの毛虫に刺されてひどい目にあった。葉の裏にびっしりと群れる様子は、毛羽立った布の切れ端が貼り付いているようにも見える。一斉にうごめきながら、端からどんどん葉が消えていく食べっぷりを思えば、掲句の通り「こうしてはおれぬ」と居ても立ってもいられぬ気分になるものだ。頭のなかには、みるみる丸裸にされていく愛すべき木の姿がイメージされる。毛虫の極彩の色彩は、天敵の鳥に対しての警告色だというが、目立つことで捕食されないというのも、なにやら攻撃的な生き方である。残酷だと思っていた毛虫の時期に登場する「毛虫焼く」の傍題にも、日頃の偉大なる自然への敬意をあっさり返上して、「もはや、それしかないでしょう」と頷いている。と、こう書いているだけで、なんだか全身むず痒くなってきた。〈綿虫のどれにも焦点が合はぬ〉〈考えてみたし栄螺の展開図〉作者は昭和2年生まれ。羨望の柔軟性である。『草のティアラ』(2009)所収。(土肥あき子)


June 0862009

 弾みたる子等の声して目高散る

                           川崎美代子

高は耳聡いのだろうか。童謡「めだかの学校」の生まれた背景に、こんな話がある。作詞者の茶木繁が幼い息子と一緒に歩いていたとき、息子が用水に目高を見つけて大声を出した。すると目高たちが姿を隠してしまったので、茶木が言った。「あんまり大声を出すもんだから、逃げちゃったじゃないか」。で、息子が言ったことには「大丈夫、また戻ってくるよ。だって、ここは"めだかの学校"だもん」。これが作詞のヒントになったのだという。だから「そっとのぞいてみてごらん」なのである。つまり、「大声をだしてはいけないよ」という大人の知恵を効かせてある。息子のの屈託の無さに比べると、かなり素直さに欠けており、掲句も微笑ましい佳句ながら、同様に大人の限界も透けているかのようだ。私が子供だった頃のことを思い返してみても、"そっとのぞいて"目高の群れを眺めるようなことは、あまりしなかったと思う。見つけたら、まずは水に手を突っ込む。さらには棒切れで引っかき回す。それにも飽きると、今度はそおっと近づいて、やにわに両手で捕獲するのだ。そして、ここからが本番。捕獲した目高は決して放さずに、生きたまま飲み込むのである。べつに目高が美味いからではなくて、これは一種の度胸試しなのであった。飲めない子は、意気地無しと馬鹿にされ囃された。馬鹿にされるのは悔しいから、みんな争って何匹も口に放り込む。これが目高との主たるつきあい方だった。大人になると、こんな悪ガキの生態をおおかた忘れてしまう。微笑ましい情景だけを切り取ってきて満足するようになる。大人になるって、なんか侘びしいんだよなあ。円虹例句集『彩』(2008)所載。(清水哲男)


June 0762009

 酒を煮る家の女房ちよとほれた

                           与謝蕪村

語は「酒を煮る」、夏です。聞きなれない言葉ですが、江戸時代には酒を煮たようです。殺菌のためでしょうか。おそらく蔵出しの日には、女将が道行く人にお酒を振舞ったのでしょう。この句、どう考えても空想で書いたとは思えず、あるいはわざわざ空想で書くほどの内容でもなく、作者自身の体験をそのまま詠んだとしか思われません。みょうに実感があります。深みにはまってしまうのではなく、女性を見て、ああきれいな人だなという程度の、罪のない賛美のこころがよく描かれています。まさに、酒に酔えば美のハードルは若干低くもなっており、軽く酔ったよい気分で、女性に心が向かう姿が素直に伝わってきます。「ちよとほれた」は、すでに酒と恋に酔ってしまった人の、箍(たが)の外れた言い回しになっています。ともかく、こんなふうに浮かれている作者の姿が、なんだかとても身近に感じられ、読者は蕪村の句に、ちょっとならずも惚れなおしてしまいます。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)




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