WHOパンデミック宣言。日本は静観の構えだが、冬期にはそうもいくまい。(哲




2009ソスN6ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1362009

 黒南風の岬に立ちて呼ぶ名なし

                           西東三鬼

ういうのを黒南風というのかな、と思う日があった。東京に梅雨入り宣言が出される少し前、ぬるくまとわりつくような風と細かい雨が、一日街をおおっていた。帰宅して、歳時記の黒南風のところを読んでいて惹かれたのが掲出句。岬に一人立って思いきり大きい声で、あるいは声にならない声を心の中に響かせて、誰かの名を呼んでいる・・・というのなら、それが冷たく突き刺さる北風ではなく、生暖かい黒南風であればなお、じんわりとやりきれなく寂しい。そこをきっぱり、呼ぶ名なし、と言い切っているこの句には、ものすごくがらんとした深い孤独感が、強烈に存在している気がした。以前から気になっていた、三鬼、という俳号のいわれなど見てみると、1933年に三十三歳で俳句を始めたからとか、サンキュウのもじりだとか、諸説。気になるのはむしろ、なぜ「鬼」か、なのだけれど。『図説俳句大歳時記 夏』(1964・角川書店)所載。(今井肖子)


June 1262009

 柿の花こぼれて久し石の上

                           高浜虚子

の小さな柿の花がこぼれて落ちて石の上に乗っている。いつまでも乗っている。「写生」という方法が示すものは、そこから「永遠」が感じられるということが最大の特徴だと僕は思っている。永遠を感じさせるカットというのはそれを見出した人の眼が感じられることが第一条件。つまり「私」が見たんですよという主張が有ること。第二にそこにそれが在ることの不思議が思われること。これが難しい。川端茅舎の「金剛の露ひとつぶや石の上」は見事な句と思うが露の完璧な形とその危うさ、また露と石の質感の対比に驚きの目が行くために露がそこに在ることの不思議さとは少し道筋が違う気がする。それはそれでもちろん一級の写生句だとは言えようが。どこにでもある柿の花が平凡な路傍の石の上に落ちていつまでもそこにある。この句を見るたび、見るかぎり、柿の花は永遠にそこに在るのだ。『ホトトギス季題便覧』(2001)所収。(今井 聖)


June 1162009

 蛍死す金平糖になりながら

                           中島砂穂

んともはや奇想天外。世に蛍の句は多けれど、蛍の死をこんな風に詠んだ句にはまずお目にかかれない。蛍の醸し出すイメージは、恋に身を焼く蛍かな、のように自らの恋心を重ねたり、死んだ人の魂を託したりと思い入れたっぷりに使われてきたように思う。死んだ蛍を詠んだ句では永田耕衣の「死蛍に照らしをかける蛍かな」があるが、凄みがあり妖気溢れる蛍の光景である。掲句では、そんな蛍の見方をうっちゃって、息絶えて地面にぽたりぽたりと落ちた蛍が金平糖になってしまう。蛍が放っていた光が金平糖の突起になって固まってしまうなんて漫画チックな展開だ。掌にこぼす色とりどりの金平糖が闇を飛び回っていた蛍だと思えば、金平糖の甘さにほろと苦い哀感が隠し味として加わりそうだ。『熱気球』(2008)所収。(三宅やよい)




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