June 262009
捕虫網白きは月日過ぎやすし
宮坂静生
タモは水中に差し入れて魚などを掬う。こちらの簡略なものは子供の小遣いでも買えたが、捕虫網は柄が長く袋の部分が大きくて網目が細かくできているので比較的高価。小遣いで買うのは大変だった。振り回して破れると母に繕ってもらう。何度も繕っているうちに捕虫網はだんだん小さくなっていった。捕虫網の細かい網目を通して見えてくる故郷はいつも夏の風景だ。自分が子供だったころ、玄関の傘立てなんかに捕虫網はいつもさされてあり、長じて、自分が子供を育てるようになってからは子供の捕虫網が替わりに傘立てにささっていた。捕虫網から捕虫網へ。網目の白から見えてくる風景は永遠に夏だ。『現代の俳人101』(2004)所収。(今井 聖)
June 252009
夏座敷父はともだちがいない
こしのゆみこ
毎年梅雨が終わると、祖母は座敷の襖を取り払って簾を吊り下げた。すっかり片づいた座敷の真ん中を涼しい風がさぁっと吹き抜けてゆくのはいかにも夏らしくて気持ちがよかった。夏座敷や打ち水といった季節の風物と縁遠いマンション暮らしの今は、思い出のなかにある風景を懐かしんでいる。そんな夏座敷の真ん中に父が一人で座っている。「父は」と言っているところからそれぞれに友達がいるほかの家族と比べているのだろう。おしゃべりな母はご近所の人たちと、かしましい娘たちも友達とたわいもない話に興じながら日々を暮らしているのかもしれない。寡黙な父はそれを羨むでもなく、一人でひっそり静かな日常を過ごしているのだろう。風通しの良い夏座敷が父の孤独をくっきりと印象付けている。「昼寝する父に睫のありにけり」「蜻蛉にまざっていたる父の顔」など、家族の中で少し寂しげだけど、かけがえのない父の姿を愛情を持って描き出している。『コイツァンの猫』(2009)所収。(三宅やよい)
June 242009
梅雨晴れや手枕の骨鳴るままに
横光利一
本来「梅雨晴れ」は、梅雨が明けて晴れの日がつづくという意味で使われたらしいが、変わってきたのだという。つまり梅雨がつづいている間に、パッと晴れる日があったりする、それをさしている。掲出句もまさにそうした一句であろう。鬱陶しい梅雨がつづいている間は、あまり外出する気にもなれない。所在なく寝ころがって手枕(肘枕)して、雑誌でも開いていたのか、ラジオを聴いていたのか、それともやまず降る窓外の雨を眺めていたのか。……長い時間そんな無理な姿勢をしていたので、腕が痛いし、骨がきしんで悲鳴をあげる。そうした自分に呆れているといった図であろうか。畳の間にのんびり寝ころがって、そのような姿勢をつづけてしまうことだってある。浴衣かアンダーシャツ姿で、だらしなくごろりとして無聊を慰めるひとときは、一種の至福の時間でもある。覚えがあるなあ。「骨鳴るままに」と詠んだところに、自嘲めいたアイロニーが読みとれる。利一は門下生を集めた「十日会」で俳句を唱導し、「俳句は小説の修業に必要だ」とまで言って、自らも多くの俳句を残した。夏の句に「日の光り初夏傾けて照りわたる」「静脈の浮き上り来る酷暑かな」などがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
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