阿部岩夫逝去の報。これで「小酒館」は辻征夫、加藤温子に次いで三人目を失う。(哲




2009ソスN6ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2862009

 蠅とんでくるや箪笥の角よけて

                           京極杞陽

語は「蝿」、夏です。そう言えば昔は、蝿と共に生きていたなあと思い出します。飴色の蝿取紙は、いつも部屋の電気のスイッチの紐に結ばれていて、吹く風に優雅に揺れていました。新しいものと取り替えるときに、要領が悪くて服にべたりとついてしまうこともありました。そんな経験、もうすることはないのだなと思えば、妙な寂しささえ感じます。テレビでたまに、顔に何匹もの蝿をたからせて平然と遊んでいるよその国の子供を見るにつけ、あんなふうに自分もあったのだと、あらためて思い出しもするわけです。句は、そんな蝿の飛んでいるところを目で追っています。勢いよく飛んできた蝿が、箪笥の角にぶつかる寸前に身をよけて、別方向へ飛んでゆきます。蝿にも立派な目があるのだから、当たり前といえばあたりまえではありますが、「よけて」の一語が、ひそやかに身を斜めに傾ける人の姿と、重なってきます。蝿というもの、どんな意識を持って、どこまでこの世をわかって飛んでいるのかと、つい余計なことを考えてしまいます。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


June 2762009

 雨傘に入れて剪る供花濃紫陽花

                           笹川菊子

年の紫陽花は色濃い気がしませんか、と幾度か話題になる。東京は梅雨らしい天気が続いているのでそう思うのかもしれないが、確かに濃い青紫の紫陽花の毬が目をひく。本棚の整理をしながら読んでいた句集にあったこの句、雨傘、に目がとまった。雨は雨粒、傘は水脈を表し、共に象形文字だというが、見るからに濡れてるなあ、そういえばこの頃あまり使わない言葉だけど、と。庭を見ながら、紫陽花を今日の供花にと決めた時から、その供花に心を通わせている作者。その心情が、雨傘に入れる、という表現になったのだろう。もう濡れてしまっているけれど、だからこそ滴る紫陽花の色である。作者の甥の上野やすお氏がまとめられたこの句集には、星野立子一周忌特集の俳誌『玉藻』(昭和六十年・三月号)に掲載された文章が収められている。朝日俳壇選者であった立子の秘書として、立子と、同時期に選者であった中村草田男、石田波郷との和やかな会話など書かれている興味深い文章の最後は、「お三人の先生は、もうこの世には在さないのである。」の一文でしめくくられていた。『菊帳余話』(1998)所収。(今井肖子)


June 2662009

 捕虫網白きは月日過ぎやすし

                           宮坂静生

モは水中に差し入れて魚などを掬う。こちらの簡略なものは子供の小遣いでも買えたが、捕虫網は柄が長く袋の部分が大きくて網目が細かくできているので比較的高価。小遣いで買うのは大変だった。振り回して破れると母に繕ってもらう。何度も繕っているうちに捕虫網はだんだん小さくなっていった。捕虫網の細かい網目を通して見えてくる故郷はいつも夏の風景だ。自分が子供だったころ、玄関の傘立てなんかに捕虫網はいつもさされてあり、長じて、自分が子供を育てるようになってからは子供の捕虫網が替わりに傘立てにささっていた。捕虫網から捕虫網へ。網目の白から見えてくる風景は永遠に夏だ。『現代の俳人101』(2004)所収。(今井 聖)




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