リ檀句

July 0172009

 わが夏帽どこまで転べども故郷

                           寺山修司

帽には、麦わら帽、パナマ帽、登山帽など各種あるけれど、夏の帽子のなかでもこの句にふさわしいのはいったい何だろうか? 故郷へ転がるのはやはり麦わら帽か。夏帽が他でもない故郷へと転がるあたりが、いかにも寺山節であり、寺山の限界でもあったと言っていいかもしれない。中七・下五のイレギュラーな調べが意識的に逆に活かされている。転がれど転がれど、行き着けない故郷。この場合、故郷をあっさり「青森」などと解釈してしまうのは短絡である。寺山は「故郷」という言葉をたくさん用い、多くの人がそれを論じてきたけれど、塚本邦雄がかつて指摘した言葉が忘れがたい。「彼の故郷が田園、あるひは日本もしくは韻文、定型、その呪文性を指すことは自明である」というのだ。もちろん異論もあるだろう。詩歌に限らず演劇、映画、小説……そして競馬さえも、彼にとっては故郷だったと思われる。故郷に向かって夏帽は転がる。仮に行き着けたにしても、もはやそこは彼の安住の地ではない。だから、とどまることなく転がりつづけ、走りつづけたのである。寺山の初期(高校時代)歌篇に、よく知られた「ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん」という傑作がある。掲出句との類想は言うまでもない。晩年の寺山修司は、俳句への意欲を語ることがあったけれど、さて存命だったらどんな句を作ったか? 没後25年にまとめられた未発表短歌には、期待を裏切られたという声が少なからずあったけれど。『寺山修司コレクション1』(1992)所収。(八木忠栄)


July 0872009

 朝焼けの溲瓶うつくし持ち去らる

                           結城昌治

焼けに対して朝焼け、いずれも夏の季語。何といっても「朝焼け」と「溲瓶」の取り合わせが尋常ではない。思わず息を_むほどの、とんでもない取り合わせではないか。空っぽの溲瓶ではあるまい。朝焼けをバックにしたガラス瓶のなかの排泄したての尿は、先入観なしに見つめれば、決して汚いものではない。尿の色を「美し」ではなく「うつくし」とソフトに視覚的に受け止めた感性には恐れ入る。「うつくし」いそのものが、さっさと持ち去られたことに対する呆気なさ、口惜しさ――と言ってしまっては大袈裟だろうか。病人が快方に向かいつつある、ある朝の病室のスケッチ。ここで私は、昔のある実景を不意に思い出した。学生時代に、怪我で入院していた同年齢のいとこを見舞ったときのことである。彼はベッドで溲瓶を使い、たっぷり入った尿の表面の泡を「ほら、ほら」と大まじめに口で吹いてみせたから、二人で顔を見合わせて大笑いした。大ジョッキのビールもかくや! 二十二歳の昌治が師事していた病友・石田波郷が主宰する句会での作。二人の病室は隣り合っていた。波郷にも「秋の暮溲罎泉のこゑをなす」という別のときの句がある。こちらは音。私なら昌治の「溲瓶」に点を入れる。まあ、いずれも健康な人には思いもよらない句である。昌治には二冊の句集『歳月』『余色』がある。『俳句は下手でかまわない』という、うれしくもありがたい著作があり、「初蝶や死者運ばれし道をきて」という病中吟もある。江國滋『俳句とあそぶ法』(1984)所載。(八木忠栄)


July 1572009

 炎天や裏町通る薬売

                           寺田寅彦

句に限らない、「炎天」という文字を目にしただけでも、暑さが苦手な人はたちまち顔を歪めてしまうだろう。梅雨が明けてからの本格的な夏の、あのカンカン照りはたまったものではない。商売とはいえ暑さに負けじと行商してあるく薬売りも、さすがに炎天では、自然に足が日当りの少ない裏町のほうへ向いてしまう。そこには涼しい風が、日陰をぬって多少なりとも走っているかもしれないが、商売に適した道筋ではあるまい。炎天下では商売も二の次ぎにならざるを得ないか。寅彦らしい着眼である。行商してあるく薬売りは、江戸の中期から始まったと言われている。私などが子どものころに経験したのは、家庭に薬箱ごと預けておいて年に一回か二回やってくる富山の薬売りだった。子どもには薬よりも、おみやげにくれる紙風船のほうが楽しみだった。温暖化によって炎天は激化しているが、「裏町」も「薬売」も大きく様変わりしているご時世である。炎天と言えば橋本多佳子の句「炎天の梯子昏きにかつぎ入る」も忘れがたい。『俳句と地球物理学』(1997)所収。(八木忠栄)


July 2272009

 蝶白く生れて瀑の夜明けかな

                           八十島 稔

(たき)は滝で夏。滝も地形それぞれによってさまざまな形状がある。掲出句の滝は「華厳瀑にて」という詞書があるから、ドードーと長々しくダイナミックに落ちる日光・中禅寺湖から落ちる滝である。私は夜明けの滝をつぶさに見た経験はないけれど、白い帯になって落ちつづける滝のしぶきから、あたかも白い蝶が次々に生まれ出てくるような勢いが感じられるのであろう。あたりを払うようなダイナミズムだけでなく、蝶を登場させたことで可憐な清潔感が強く表現されている。稔は岩佐東一郎や北園克衛らとともに、戦前に俳句を盛んに作っていた詩人の一人であり、句集『柘榴』を「風流陣文学叢書」の一冊として刊行している。同じ華厳滝を詠んだ句「わが胸を二つに断ちて華厳落つ」(福田蓼汀)には、対照的な豪快な調べがあるけれど、掲出句は静けささえ感じさせるきれいな夜明けである。私事になるが、日光の華厳滝はもう二十数年以上見ていない。真冬のそれを見たときには、別な凄まじさで圧倒された。滝の句では、他に中原道夫の「瀧壷に瀧活けてある眺めかな」に悠揚迫らぬ味わいがあって忘れがたい。『柘榴』(1939)所収。(八木忠栄)


July 2972009

 夏の月路地裏に匂うわが昭和

                           斎藤 環

は本来秋の季語だが、季節を少々早めた「夏の月」には、秋とはちがった風情を思わせるものがある。しかも路地裏で見あげる月である。一日の強い日差しが消えて、ようやく涼しさが多少戻ってきている。しかし、まだ暑熱がうっすらと残っている宵の路地だろうか。「わが昭和」という下五の決め方はどこやら、あやうい「くせもの」といった観なきにしもあらずだが、ホッとして気持ちは迷わず昭和へと遡っている。大胆と言えば大胆。「路地裏」と「わが昭和」をならべると、ある種のセンチメンタリズムが見えてくるし、道具立てがそろいすぎの観も否めないけれど、まあ、よろしいではないか。こんなに味気なくなった平成の御代にあって、路地裏にはまだ、よき昭和の気配がちゃんと残っていたりするし、人の心が濃く匂っていたりする。そこをキャッチした。同じ作者には「大宇宙昭和のおたく「そら」とルビ」という句もある。同じ昭和を詠んでいながら、表情はがらりとちがう。作者は1961年生まれの精神科医。そう言えば、久保田万太郎に「夏の月いま上りたるばかりかな」という傑作があった。『角川春樹句会手帖』(2009)所載。(八木忠栄)


August 0582009

 たつぷりとたゆたふ蚊帳の中たるみ

                           瀧井孝作

や蚊帳は懐かしい風物詩となってしまった。蚊が減ったとはいえ、いないわけではないが、蚊帳を吊るほど悩まされることはなくなった。蚊取線香やアースノーマットなるもので事足りる。よく「蚊の鳴くような声」と言うけれど、蚊の鳴く声ほど嫌なものはない。パチリと叩きつぶすと掌にべっとり血を残すものもいる。部屋の隅っこから何カ所か紐で吊るすと、蚊帳が大きいほどどうしても中ほどにたるみができる。蚊帳の裾を念入りに払って蒲団に入り、見あげるともなくたるみを気にしているうちに、いつか寝入ってしまったものである。小学生の頃には、切れた電球のなかみを抜き、その夜とった蛍を何匹も入れ、封をして蚊帳のたるみの上にころがして、明滅する蛍の灯をしばし楽しんだこともあった。「たつぷりとたゆたふ」という表現に、そこの住人の鷹揚とした性格までがダブって感じられるではないか。昔の蚊帳は厚手だった。代表作「無限抱擁」のこの作家は、柴折という俳号をもち自由律俳句もつくる俳人としても活躍した。『柴折句集』『浮寝鳥』などの句集があり、全句集もある。蚊帳と言えば、草田男に「蚊帳へくる故郷の町の薄あかり」がある。『滝井孝作全句集』(1974)所収。(八木忠栄)


August 1282009

 群集の顎吊り上げし花火かな

                           仲畑貴志

の夜を彩って、日本各地であげられていた花火も一段落といった時季。これまでの幾歳月、じつに多くの土地でさまざまな花火を見てきた。闇が深くなる花火会場に押し寄せてくるあの大群集は、異様と言えば異様な光景である。花火があがるたびに、飽きもせずひたすら夜空を見あげる顔顔顔顔。その視線や歓声ではなく、掲出句ではあがる花火につり上げられるがごとき人々の顎に、フォーカスしている。そこにこの句のユニークな味わいがある。視点を少々ずらした発見。たわいもなく顎を吊り上げられてしまうかのような群集の様子は、ユーモラスでさえある。花火があがるたびに、夜空へいっせいに吊り上げられてゆく顎顎顎顎。老若男女それぞれの顎顎顎顎。絵師・写楽なら、表情のアップをどのような絵に描いてくれただろうか、と妄想してみたくなる。張子の玉が勢いよく夜空へ上昇して行くにしたがって、群集の顎たちも同時に吊り上げられて行き、空中で開いたり、しだれたりするさまを、目ではなく顎そのものでとらえているのである。コピーライターである貴志には「日向ぼこ神に抱かれているごとく」という句もある。『角川春樹句会手帖』(2009)所載。(八木忠栄)


August 1982009

 古書店の影さまざまに秋めきぬ

                           佐藤和歌子

の上ではもう秋だとは言え、まだまだ残暑は厳しい。しかし、何かの拍子にひょっとして、それとなく秋の気配がしっかり感じられることがある。「春めく」にしても「秋めく」にしても、じつに曖昧で主観的な感性が日本独特の季節感を表現し、古典詩歌を繊細に豊かにしてきたと言える。掲出句が出された句会では「古書店の影って曖昧ですよ」という声もあがったようだが、私に言わせれば、「古書店」だからこそ「影さまざま」が生きていると思われる。古書店というものには、それぞれの店構えもさることながら、古書店内独特の匂いやさまざまな書物の気配などがあって、みな個性をにじませている。いや、独自性を毅然と誇示しているようにさえ感じられる。神保町の古書店街あたりだろうか。秋の弱い日差しや秋風を受けはじめた店がもつ影にも、それぞれ別々のニュアンスが感じられるのも秋なればこそ。「影」こそがこの句のポイントである。直接的には建物としての店の影であろうが、形而上的な意味合いも十分に含まれていると読みたい。作者は同じ兼題で「秋めくや母はルージュを濃くしたり」という、女性らしいモチベーションをもった句も同時に作っている。『角川春樹句会手帖』(2009)所載。(八木忠栄)


August 2682009

 髪を梳く鏡の中の秋となる

                           入船亭扇橋

を梳いている人物は女性であろう。男性である可能性もなくはないが、それでは面白くもおかしくもない。女性でありたい。外はもう秋なのだろうけれど、鏡に見入りながら髪を梳く女性が、今さらのように鏡の中に秋の気配を発見してハッとている驚きがある。いや、鏡の前で乱れた髪を梳いている女性を、後方からそっと覗いている男性が、鏡の中に秋を発見してハッとしているのかもしれない。そのほうが句に色っぽさが加わる。「となる」が動きと驚きを表現している。他にも類想がありそうな設定だが、いつも飄々とした中にうっすらとした色気が漂う高座の扇橋の句として、味わい深いものがある。この人の俳句のキャリアについてはくり返すまでもない。曰く「言いたいことが山ほどあっても、こらえて、こらえて詠む。いわば、我慢の文学。これが俳句の魅力」と語る。この言葉は落語にも通じるように思われる。落語も言いたいことをパアパアしゃべくって、ただ笑いを取ればいいというものではない。「手を揃へ初夏よそほひし若女将」の句もある。扇橋の高座では特に「茄子娘」「弥次郎」などは、何回聴いても飽きることがない。扇橋が当初から宗匠をつとめ、面々が毎月マジメに俳句と戯れる「東京やなぎ句会」は、今年一月になんと四十周年を迎えた。『五・七・五』(2009)所載。(八木忠栄)


September 0292009

 稲妻や白き茶わんに白き飯

                           吉川英治

がみのる肝腎な時季に多いのが稲妻(稲光)である。「稲の夫(つま)」の意だと言われる。稲妻がまさか稲をみのらせるわけではあるまいが、雷が多い年は豊作だとも言われる。科学的根拠があるかどうかは詳らかにしない。しかし、稲妻・稲光・雷・雷鳴……これらは一般的に好かれるものではないが、地上では逃がれようがない。稲妻を色彩にたとえるならば、光だからやはり白だろうか。その白と茶わんの白、飯の白が執拗に三つ重ねになっている。しかも、そこには鋭い光の動きも加わっている。中七・下五にはあえて特別な技巧はなく、ありのままの描写だが、むしろ「白」のもつ飾らないありのままの輝きがパワーを発揮している。外では稲妻が盛んに走っているのかもしれないが、食卓では白い茶わんに白いご飯をよそってただ黙々と食べるだけ、という時間がそこにある。ようやく「白き飯」にありつけた戦後の一光景、とまで読みこむ必要はあるまい。特別に何事か構えることなく、しっかり詠いきっている句である。橋本多佳子のかの「いなびかり北よりすれば北を見る」は、あまりにもよく知られているけれど、永井荷風には「稲妻や世をすねて住む竹の奥」という、いかにもと納得できる句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 0992009

 窓に干す下着に路地の秋は棲む

                           大西信行

り気のないなかに、市民の小さなかけがえのない日常が切りとられている句である。路地を歩いていて、ふと目にしたさりげない光景であろう。秋の涼風に吹かれて心地良さそうに乾いてゆく下着、それが男物であろうと女物であろうと、その光景を想起しただけで、秋を受け入れて気持ちがさわやかに解き放たれてくるようにさえ感じられる。しかも、人通りの少ない路地で風に吹かれながら、下着が秋を独占していると考えれば微笑ましいではないか。人間臭い路地の秋が、きれいに洗濯されて干された下着に集約されて、秋が生き物のようにしばし棲んでいるととらえた。そんなところに思いがけず潜んでいる秋は、ことさら愛しいものに感じられてくる。小さくともこころ惹かれる秋である。信行は劇作家で、俳号は獏十(ばくと)。東京やなぎ句会発足時の十名のメンバーのひとり。(俳号通りの「博徒」でいらっしゃるとか…)他に「石垣の石は語らず年果つる」「心太むかしのままの路地の風」などがある。『五・七・五』(2009)所載。(八木忠栄)


September 1692009

 生きてあることのうれしき新酒哉

                           吉井 勇

米で作られた酒は新酒と呼ばれ、「今年酒」とも「新走(あらばしり)」とも呼ばれる。初ものや新しいものが好きなのは人の常。酒好きの御仁にとって新酒はとりわけたまらない。酒造元の軒先に、昔も今も新酒ができた合図に吊るされる青々とした真新しい杉玉(酒林)は、うれしくも廃れてほしくない風習である。暑さ寒さにかかわりなく年中酒杯を口に運んでいる者にとって、香りの高い新酒はまた格別の逸品である。そのうまさはまさに「生きてあることのうれし」さを、改めて実感させてくれることだろうし、今年もまた新酒を口にできることの感激を味わうことにもなる。勇が掲出句を詠んだ時代は、現在のようにやたらに酒が手に入る時代とはちがっていたはずである。それだけに新酒のうれしさは一入だったにちがいない。逆に現在は、新酒との出会いの感激はそれほどでもなくなったかもしれない。勇は短歌のほかに俳句もたくさん詠んだ。酒を愛した人らしい句に「 またしても尻長酒や雪の客 」もある。中村草田男の新酒の句に「 肘張りて新酒をかばふかに飲むよ 」があって、その様子は目に見えるようだ。10月1日は「日本酒の日」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 2392009

 名月や橋の下では敵討ち

                           野坂昭如

やら時代劇映画のワンシーンを思わせる。貼りつけたような名月が耿々と冴える夜の河原で、ススキを背に大刀をかまえるたくましい豪の者に対し、殿か父の仇か知らないが、どこか脆さが見える若者……とまあ、このあたりの空想はきりがない。敵討ちは橋の上ではなく,人けのない橋の下の荒地でということになろう。それが映画であれ、芝居であれ、いかにも絵になる光景である。六、七年前だったか、野坂昭如による正岡子規の俳句についての講演を聴いたことがある。この両者の取り合わせが私には意外だった。四年前に脳梗塞で倒れる以前、文壇句会に常連として招かれると、いつも好成績をあげていたという。掲出句は、元担当編集者だった宮田さんが、脳力アップのためのリハビリとして勧めた《ひとり連句》のうち、「寝床の中の巻」の「月の座」で詠まれた一句であり、(恋)猫の恋にらみは団州仕込みなり、(雑)知らざあ言って聞かせやしょう、を受けたもの。それまでの歌舞伎調の流れを受けての連想らしい。「チャンバラ映画の撮影でもいい」というのが自註。連句のこむずかしい約束事に拘泥することなく、自在に言葉遊びを楽しんでいる点がすばらしい。『ひとり連句春秋』(2009)所収。(八木忠栄)


September 3092009

 池よりも低きに聞こゆ虫の声

                           源氏鶏太

の際、「鳴いている虫は何か?」と虫の種類に特にこだわる必要はあるまい。リーンリーンでもスイッチョンでもガチャガチャでもかまわない。通りかかった池のほとりの草むらで、まめに鳴いている虫の声にふと耳をかたむける。地中からわきあがってくるようなきれいな声が、あたかも静かな池の水底から聞こえてくるように感じられたのである。「池よりも低き」に想定して聞いたところに、この句の趣きがある。しかも「池」の水の連想からゆえに、虫の声が格別澄んできれいなものであるかのように思われる。たしかに虫の声が実際は足元からであるにしても、もっと低いところからわいてくるように感じられても不思議はない。詠われてみれば当たり前のことだが、ふと耳をかたむけた作者の細やかな感性が、静けさのなかに働いている。ただ漠然と「ああ、草むらで虫が鳴いているなあ」では、そこに俳句も詩も生まれてくる余地はない。鶏太には晩秋の句「障子洗ふ川面に夕日あかあかと」がある。また、久米正雄の虫の句には「われは守るわれの歩度なり虫の声」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 07102009

 一人来し松茸山や陽の匂ひ

                           玉川一郎

い松茸・味しめじ――と言われるように、松茸は食感もさることながら匂いがいのちである。松茸とりの名人は赤松林に入っただけで、かすかな匂いから松茸を探り当てると言われる。新鮮なほど匂いは高いわけだから、輸入物ではかなわない。『滑稽雑談』という古書に「松気あり。山中の古松の樹下に生ず。松気を仮りて生ず。木茸中第一なり」とある。茸は何といっても松茸が最高とされるけれども、私たち一般人の口にはなかなか届かない。子どもの頃、父が裏山からとって来た一本の松茸を、七輪でしみじみと焼いていた姿をはっきり記憶している。それを食べさせてもらったか否かは定かではない。「松茸の出る場所は親子でも教えない」と言われるが、観光の松茸狩りでもないかぎり、群がって松茸山へ入るということは考えられない。掲出句では、松茸を求めて呼吸を整え、嗅覚を澄ませているのだろう。首尾よく嗅ぎあてたかどうかは知らないが、松林にこぼれている陽の独特の匂いをまずは嗅ぎあてたのだろう。松茸山で松茸の匂いではなく、「陽の匂ひ」を出してきたところに味わいが感じられる。はたして松茸をとることができたのかどうかはわからないし、どうでもよいことなのだ。芭蕉の句「松茸や知らぬ木の葉のへばりつく」は、目の付けどころがおもしろい。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 14102009

 焚くほどは風がもてくる落葉かな

                           良 寛

語として「落葉」は冬だけれど、良寛の句としてよく知られた代表句の一つである。越後の国上山(くがみやま)にある古刹・国上寺(こくじょうじ)に付属する小さな五合庵の庭に、この句碑はのっそり建っている。もともと同寺が客僧を住まわせ、日に五合の米を給したところから名前がついた。良寛はここに四十歳から約二十年近く住んだ。同庵をうたった詩のなかに「索々たる五合庵/室は懸磬(けんけい)のごとく然り/戸外に杉千株」「釜中時に塵あり/甑裡(そうり)さらに烟なし」などとある。煮焚きをするのに余分なものはいらない。あくせくせず、ときに風が運んできてくれる落葉で事足りるというわけである。落葉一枚さえ余分にいらないという、無一物に徹した精神であり、そうした精神を深化させる住庵の日々であったと言える。「わが庵を訪ねて来ませあしびきの山のもみぢを手折りがてらに」「国上山杉の下道ふみわけて我がすむ庵にいざかへりてん」など、草庵での日々を詠んだ歌がたくさん残されている。山の斜面にひっそりと建つ五合庵から托鉢に出かけるには、夏場はともかく、雪に閉じ込められる冬場は、難渋を強いられたであろうことが容易に推察される。大島花束編『良寛全集』には「たくだけは風がもて来る落葉かな」とあり、一茶の日記には「焚くほどは風がくれたる……」というふうに、異稿も残されている。『良寛こころのうた』(2009)所収。(八木忠栄)


October 21102009

 葱に住む水神をこそ断ちませい!

                           天沢退二郎

てよし、焼いてよし、またナマでよし――葱は大根とならんで、私たち日本人の食卓に欠かせない野菜である。スーパーから帰る人の買物籠にはたいてい長葱が涼しげに突っ立っている。最近は産地直送の泥のついた元気な葱もならんでいる。買物好きの退二郎には、かつて自転車に買物籠を付けて走りまわっていたことを、克明に楽しげに書いたエッセイがあった。そういう詩人が葱を詠んだ俳句であり、妙にリアリティが感じられる。水をつかさどり、火災から守るという水神さまが、あの細い葱のなかに住んでいらしゃるという発想はおもしろいではないか。葱は水分をたっぷり含んでいて、その澄んだ水に水神さまがおっとり住んでいるようにも想像される。葱をスパッと切ったり、皮をひんむくという発想の句はほかにあるけれど、「断ちませい!」という下五の口調はきっぱりとしていながら、ユーモラスな響きも含んでいる。葱にふさわしい潔さも感じられる。関東には深谷葱や下仁田葱など、おいしい葱が店頭をずらりと白く飾っている。鍋料理がうれしい季節だ。蕪村は「葱買うて枯木の中を帰りけり」という句を詠んでいるが、葱が匂ってくるようでもある。退二郎は葱の句をまとめて十句発表しているが、他に「葱断つは同心円の無常観」「葱断つも葱の凹(へこ)まぬ気合いこそ」などがある。「蜻蛉句帳」41号(2009)所載。(八木忠栄)


October 28102009

 月の出を待つえりもとをかき合せ

                           森田たま

の出を待つなどという風情も時間も、現実にはほとんど失われてしまったのかもしれない。いや、それでも俳人のあいだでは、月の出を待って競作しようとか、酒を楽しもうという情趣が残されているのかもしれない。えりもとをかき合わせる仕草も、舞台や高座ではしっかり生きている。今月初めにたまたま北欧のある町を歩いていて、街路から遠くにぽっかり浮かんでいる満月に気がついてビックリ。何の不思議もないわけだが、妙にうれしく感じられる月だった。思わずカメラを向けたのだが、他にその月に気づいている人はいないようだった。掲出句の御仁は、どんな状況で月の出を待っているのだろうか。えりもとを思わずかき合わせたのは、おそらくちょいとした緊張と寒さのせいだったものと思われる。それがどんな状況であれ、いかにもシックな女性らしい仕草ではないか。ふと気づいた月の出ではなく、月の出を今か今かと待っているのであり、出を待たれている月があるという、かすかで濃い時間がそこに刻まれている。えりもとをかき合わせるという仕草によって、さりげないお色気もここには漂っている。たまは多くの俳句を残しているが、月を詠んだ句に「はろばろと空の広さよ今日の月」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 04112009

 汽車道と国道と並ぶ寒さ哉

                           内田百鬼園

車道とはレトロな呼び方である。今なら「鉄道」とか、せいぜい「電車道」だろう。私などは幼い頃から呼びなれた「汽車道」という言葉が、ついつい口をついて出ることがある。だって高校通学では「汽車通(つう)」という言い方をしていたのだから。汽車ではなく、車輛不揃いな田舎の電車で通う「汽車通」だった。掲出句における作者内田百鬼園先生の位置は国道にいてもいいわけだが、ここは電車ではなくて汽車に乗っていると思われる。旅を頻繁にして「阿房列車」シリーズの傑作がある内田百鬼園であり、しかも明治四十二年の作だから、ここは汽車に乗っているとしたほうが妥当であろう。車内は暖房が少々きいていたか否か、いずれにせよ外の寒さに比べればましである。鉄道と国道が不意に寄り添う場所があるものだ。あれは妙におかしさを覚える。国道を寒そうに身を縮めて歩いている人を、車窓から眺めているのだろうか。あるいは人影はまったくないのかもしれない。車中の人は旅の途中であり、寒々とした田舎の風景が広がっているのだろう。汽車道と国道とが身を寄せ合っていることで、いっそう寒さが強く感じられる。「汽車道」という響きも寒さをいや増してくる。内田百鬼園は岡山一中(第六高等学校)時代に、国語教師・志田素琴に俳句を学んだ。掲出句は「六高会誌」に発表された。同年同誌に発表された句に「この郷の色壁や旅しぐれつつ」「埋火や子規の句さがす古雑誌」などがある。『百鬼園句帖』(2004)所収。(八木忠栄)


November 11112009

 憎まるゝ役をふられし小春かな

                           伊志井寛

一月に入って寒さは、やはり厳しくなってきたけれど、思いがけない暖気になって戸惑ってしまう日もあったりする。そんな時はうれしいようでありながら、あわててしまうことにもなってしまう。「小春」は「小六月」とも「小春日和」とも呼ばれる。日本語には「小正月」「小股」「小姑」など、「小…」と表現する言葉があってなかなか奥床しい。伊志井寛は新派のスターとして舞台にテレビに活躍した。この句の場合、どんな芝居のどんな役柄なのかはわからないけれど、この名優にして「憎まるゝ役」をふられたことに対する当惑と、小春日和に対する戸惑いが、期せずしてマッチしてしまった妙味が感じられて、どこか微笑ましさも感じられる。役者にとっては憎まれ役だからいやとか、良い役だからうれしいとか、そんな単純な反応はあるまい。憎まれ役だからこそむずかしく、レベルの高い演技が必要とされて、やりがいがある場合もあるだろう。そこに役者冥利といったものが生じてくる。「厳冬」でも「炎暑」でもなく、穏やかな「小春」ゆえに「憎まるゝ役」も喜ばしいものに感じられてくるわけだ。松本たかしの句に「玉の如き小春日和を授かりし」がある。平井照敏編『新歳時記』(1989)所収。(八木忠栄)


November 18112009

 炬燵して語れ真田が冬の陣

                           尾崎士郎

の時季、北国ではもう炬燵が家族団欒の中心になっている。ストーブが普及しているとはいえ、炬燵にじっくり落着いてテコでも動かないという御仁もいらっしゃるはずである。広い部屋には炬燵とストーブが同居しているなどというケースも少なくない。日本人の文化そのものを表象していると言える。「真田が冬の陣」とは、言うまでもなく真田幸村が大坂城で徳川方を悩ませた「冬の陣」のことをさす。その奮戦ぶりを「語れ」という、いかにも歴史小説家らしい着想である。幸村はその後、「夏の陣」で戦死する。私は小学生の頃、炬燵にもぐり込んで親戚の婆ちゃんから怖い話も含めて、昔話を山ほど聞いた思い出がある。しかし、その九割方はすっかり忘れてしまった。炬燵の熱さだけが鮮明に残っているのは我ながら情けない。大学一年の頃は、アパートのがらんとした三畳間で電気炬燵に足をつっこんで、尾崎士郎の「人生劇場」(これまで十数回映画化されている)をトランジスターラジオにかじりついて毎夜聴いていた。古臭い主題歌に若い胸を波立たせていたっけなあ。物語をじっくり話したり聴いたりするのには炬燵こそ適している、と思うのは私が雪国育ちのせいかもしれない。士郎は俳句を本格的に学んだわけではなかった。他に「うららかや鶏今日も姦通す」がある。蕪村には「腰ぬけの妻うつくしき炬燵かな」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 25112009

 枯菊や日々に覚めゆく憤り

                           萩原朔太郎

かなる植物も、特に花を咲かすものは盛りを過ぎたら、その枯れた姿はひときわ無惨に映る。殊に菊は秋に多くの鑑賞者を感嘆させただけに、枯れた姿との落差は大きいものがある。しかも季節は冬に移っているから、いっそう寒々しい。目を向ける人もいなくなる。掲出句には「我が齢すでに知命を過ぎぬ」とあるのだが、自分も、知命=天命を知る五十歳を過ぎて老齢に向かっている。そのことを枯菊に重ねて感慨を深くしているのだろう。若い頃の熱い憤りにくらべ、加齢とともにそうした心の熱さ、心の波立ちといったものがあっさりと覚めていってしまうのは、朔太郎に限ったことではない。朔太郎は昭和十年に五十歳をむかえている。この年に『純正詩論』『絶望の逃走』『猫町』等を刊行している。前年には『氷島』を、翌年には『定本青猫』を刊行している。知命を過ぎてから、この句がいつ書かれたのかという正確な時期は研究者にお任せするしかないが、朔太郎が五十一歳になっていた昭和十一年二月に「二・二六事件」が起きている。事件の推移を佐藤惣之助らとラジオで聴いて、こう記している。「二月二十六日の事件に関しては、僕はただ『漠然たる憤り』を感じてゐる。これ以上に言ふことも出来ないし、深く解明することもできない。云々」(伊藤信吉・年譜)。その「憤り」だったかどうか? 他に「笹鳴や日脚のおそき縁の先」がある。平井照敏『新歳時記』(1989)所収。(八木忠栄)


December 02122009

 東海道松の並木に懸大根

                           吉屋信子

海道の松並木と懸大根の取り合わせがみごとである。しかもワイドスクリーンになっている。「懸大根」とは「大根干す」の傍題であり、たくあん漬にするための大根を、並木に渡した竹竿か何かにずらりと干している図である。東海道のどこかで目にした、おそらく実景だろうと思われる。たくさん干されている大根の彼方には、冠雪の富士山がくっきり見えているのかもしれない。私は十年ほど前、別の土地でそれに似た光景に出くわしたことがある。弘前から龍飛岬へ行く途中、津軽線の蓬田あたりの車窓からの眺めだったと思う。海岸沿いに白い烏賊ならぬ真っ白い懸大根が、ずらりと視界をさえぎっていた。場所柄、魚を干しているならばともかく、海岸と大根の取り合わせに場違いで奇妙な印象をもった。もちろん、漁村でたくあん漬を作っても何の不思議もないわけだが……。さて、東海道の松並木というと、私などは清水次郎長一家がそろって、旅支度で松の並木を急ぐという、映画のカッコいいワンシーンを思い出してしまう。信子の大根への着眼には畏れ入りました。立派な東海道の絵というよりも、土地に対する親近感というか濃い生活感を読みとることができる。信子の冬の句に「寒紅や二夫にまみえて子をなさず」「寒釣や世に背きたる背を向けて」などがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 09122009

 悪性の風邪こじらせて談志きく

                           高田文夫

型インフルエンザの蔓延で、ワクチンの製造が追いつかない昨今、病院も学校も電車でもマスク姿があふれかえっている。学校の学級閉鎖も深刻だ。例年インフルエンザでなくとも、風邪がはやる冬場。まして暮れのあわただしい時季に風邪をこじらせてしまってはたまらない。文夫はくっきりした口跡の持ち主だが、悪性の風邪をこじらせても、贔屓の立川談志の高座は聴きに出かけなくてはならない。つらい状況の句だけれど、「談志きく」の下五で救われて笑いさえ感じられる。談志の声は美声ではない。あの声だ。数年前「立川流二十周年」の会で、志の輔の後に高座にあがった談志が、開口一番「こんなに声の悪いやつがつづいていいのかね」と真顔で呟いて、客席をひっくり返したことがあった。志の輔は「談志の声は悪くない」と言っているが、まあ、ふたりともガラガラ声だ。どちらかと言えば「悪い声」ということになるだろう。もっとも芸人の場合、いわゆる美声が必ずしもプラスになるとは限らない。風邪をこじらせれば熱も出るだろうし、のどをやられればガラガラ声にだってなる。そんな状態でも、談志のガラガラ声を聴きに出かけるというブラック・ユーモアに、文夫らしさがにじんでいる。ちなみに文夫は立川流Bコース(著名人)の真打で、高座名は「立川藤(とう)志楼」。本格的に高座で落語を演じることも珍しくない。文夫の風邪の句に「風邪ひとつひいて女郎の冬支度」がある。『平成大句会』(1994)所収。(八木忠栄)


December 16122009

 湯豆腐の小踊りするや夜の酌

                           玉村豊男

頃は忘年会の連続で、にぎやかな酒にも海山のご馳走にも食傷気味か? そんな夜には、家でそっとあっさりした湯豆腐でもゆっくりつつきたい――そんな御仁が多いかもしれない。湯豆腐は手間がかからなくて温まるうれしい鍋料理。豆腐が煮えてきて鍋の表面に浮いてくる寸前を掬って食べる、それがいちばんおいしいと言われる。「小踊りする」のだから、まさに掬って食べるタイミングを言っている。表面で踊り狂うようになってしまっては、もはやいけません。掲出句は食べるタイミングだけ言っているのではなく、湯豆腐を囲んでいる面々の話題も楽しくはずんでいる様子まで感じさせてくれる。「小踊り」で決まった句である。古くは「酌は髱(たぼ)」と言われたけれど、ご婦人に限らず誰の酌であるにせよ、この酒席が盛りあがっていることは、湯豆腐の「小踊り」からも推察される。酒席はつねにそうでありたいものである。万太郎の名句「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」にくらべて、親しみとユーモアがほのぼのと感じられる。湯豆腐の句は数あるようだが、意外とそうでもないようだ。三橋敏雄に「脆き湯豆腐人工衛星など語るな」がある。なるほど。豊男には他に「天の寒地に堕ちて白き柱かな」がある。『平成大句会』(1994)所載。(八木忠栄)


December 23122009

 志ん生を偲ぶふぐちり煮えにけり

                           戸板康二

ぐ、あんこう、いのしし、石狩……「鍋」と聞くだけでうれしくなる季節である。寒い夜には、あちこちで鍋奉行たちがご活躍でしょう。志ん生の長女・美津子さんの『志ん生の食卓』(2008)によると、志ん生は納豆と豆腐が大好きだったという。同書にふぐ料理のことは出てこないが、森下の老舗「みの家」へはよく通って桜鍋を食べたらしい。志ん生を贔屓にしていた康二は、おそらく一緒にふぐちりをつついた思い出があったにちがいない。志ん生亡き後、ふぐちりを前にしたおりにそのことを懐かしく思い出したのである。同時に、あの愛すべきぞろっぺえな高座の芸も。赤貧洗う時代を過ごした志ん生も、後年はご贔屓とふぐちりを囲む機会はあったはずである。また、酒を飲んだ後に丼を食べるとき、少し残しておいた酒を丼にかけて食べるという妙な習慣があったらしい。「ふぐ鍋」という落語がある。ふぐをもらった旦那が毒が怖いので、まず出入りの男に持たせた。別状がないようなので安心して自分も食べた。出入りの男は旦那の無事を確認してから、「私も帰って食べましょう」。それにしても、誰と囲むにせよ鍋が煮えてくるまでの間というのは、期待でワクワクする時間である。蕪村の句に「逢はぬ恋おもひ切る夜やふぐと汁」がある。『良夜』など三冊の句集のある康二には「少女には少女の夢のかるたかな」という句もある。『戸板康二句集』(2000)所収。(八木忠栄)


December 30122009

 大年や沖遥かなる波しぶき

                           新藤凉子

うとう今年も、今日を入れて二日を残すのみとはなりにけり――である。大年(おおとし)とは十二月三十一日のこと。山本健吉の『季寄せ』では、こう説明されている。「年越と同じく、除夜から元旦への一年の境を言う。正月十四日夜の小年(こどし)にたいする言葉。だが大晦日そのものをも言う。大年越」。さらには「大三十日」「おほつごもり」とも呼ばれる。今日三十日は「つごもり」。年も押し詰まったある日、はるか海上を見渡せば、沖合にいつもと変わりなく白い波しぶきがあがっている。一年のどん詰まりとはるかなる沖合(まさに時間と空間)の対比が、句に勢いを加えている。大きさとこまやかさ。数年前の夏のある日、友人たちと熱海にある凉子のマンションに招かれたことがあった。ビールを飲んでは、見晴らしのいい大きなガラス窓から、海上はるかに浮かぶ初島を飽かず眺望していた。もしかして、作者はあの島を眺めていて、波しぶきを発見したのかもしれない。大晦日になって、妙にこせこせ、せかせかしないおおらかな句である。いかにも凉子の人柄が感じられる。ほかに「冬帽子母のまなざし蘇る」というこまやかな句もある。正岡子規には「漱石が来て虚子が来て大三十日」というゼイタクな句もある。『平成大句会』(1994)所載。(八木忠栄)




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