「半過去」だの「複合過去」だのと、このフランス語文法用語が戸惑いの元だ。(哲




2009ソスN7ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0272009

 昼寝覚め象にあたまを跨がれて

                           澤 好摩

寝は20分ぐらいが限度でそれ以上寝るとかえってだるくなる。と、どこかで読んだ覚えがある。そうは言ってもついとろとろ寝てしまい、気づいたときには夕暮れといっただらしなさ。象にあたまを跨がれた経験を持つ人はそうはいないだろうが、その圧迫感、恐ろしさは想像するにあまりある。灰色の象はその大きさが童話的に語られがちだが、その重量感を違った角度で描き出している。まわりの音は聞こえているのに身体が重くて、なかなか起き上がれない。ようやく目覚め、しばし現実を把握できぬまま手足を投げ出してぼうっと天井を見上げている。その有様が象に踏みつけにされるのを逃れたあと大地に仰向けになっている人を想像させる。危険が過ぎ去ったあとの放心も昼寝覚めに似た味わいかもしれない。現実と夢が交錯する曖昧な気分を象の重量感とともに言いとめている。『澤好摩句集』(2009)所収。(三宅やよい)


July 0172009

 わが夏帽どこまで転べども故郷

                           寺山修司

帽には、麦わら帽、パナマ帽、登山帽など各種あるけれど、夏の帽子のなかでもこの句にふさわしいのはいったい何だろうか? 故郷へ転がるのはやはり麦わら帽か。夏帽が他でもない故郷へと転がるあたりが、いかにも寺山節であり、寺山の限界でもあったと言っていいかもしれない。中七・下五のイレギュラーな調べが意識的に逆に活かされている。転がれど転がれど、行き着けない故郷。この場合、故郷をあっさり「青森」などと解釈してしまうのは短絡である。寺山は「故郷」という言葉をたくさん用い、多くの人がそれを論じてきたけれど、塚本邦雄がかつて指摘した言葉が忘れがたい。「彼の故郷が田園、あるひは日本もしくは韻文、定型、その呪文性を指すことは自明である」というのだ。もちろん異論もあるだろう。詩歌に限らず演劇、映画、小説……そして競馬さえも、彼にとっては故郷だったと思われる。故郷に向かって夏帽は転がる。仮に行き着けたにしても、もはやそこは彼の安住の地ではない。だから、とどまることなく転がりつづけ、走りつづけたのである。寺山の初期(高校時代)歌篇に、よく知られた「ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん」という傑作がある。掲出句との類想は言うまでもない。晩年の寺山修司は、俳句への意欲を語ることがあったけれど、さて存命だったらどんな句を作ったか? 没後25年にまとめられた未発表短歌には、期待を裏切られたという声が少なからずあったけれど。『寺山修司コレクション1』(1992)所収。(八木忠栄)


June 3062009

 青梅雨や櫂の届かぬ水底も

                           高柳克弘

梅雨という言葉は、俳句を始めるずっと以前に永井龍男の小説で知った。ある雨の日のできごとを淡々と綴るこの作品は、いつ読み返しても、平明な言葉のかたまりが、突如人間の肉体と表情を持ってそこにあらわれる。掲句でも、中七の「櫂」が、まるで水中に伸ばした腕の、開いた五指の、さらにもっと先をまさぐるような感触を思わせ、うっとりと、少し気味悪く、水の底の景色を見せている。そして、おしまいにそっと置かれた「水底も」の「も」に、この世のあらゆるものが濡れ濡れと雨に輝いている様子につながる。質のよい一節は時折、見えないものを手にとるように見せてくれる。青々と茂る葉を打つ梅雨の雨は、路上を打ち、水面を打ち、ぐっしょりと水底を濡らしている。降り続く雨のなか、小さな傘の内側で濡れない自分をどうにも居心地悪く思うことがある。小説のなかで会話する家族より、櫂の届かない水底より、ずっと不自然な場所に立たされているかのように、ふわふわと足元がおぼつかなくなる。〈噴水の虹くぐりては巣作りす〉〈巻貝は時間のかたち南風〉『未踏』(2009)所収。(土肥あき子)




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