O謔「句

July 0272009

 昼寝覚め象にあたまを跨がれて

                           澤 好摩

寝は20分ぐらいが限度でそれ以上寝るとかえってだるくなる。と、どこかで読んだ覚えがある。そうは言ってもついとろとろ寝てしまい、気づいたときには夕暮れといっただらしなさ。象にあたまを跨がれた経験を持つ人はそうはいないだろうが、その圧迫感、恐ろしさは想像するにあまりある。灰色の象はその大きさが童話的に語られがちだが、その重量感を違った角度で描き出している。まわりの音は聞こえているのに身体が重くて、なかなか起き上がれない。ようやく目覚め、しばし現実を把握できぬまま手足を投げ出してぼうっと天井を見上げている。その有様が象に踏みつけにされるのを逃れたあと大地に仰向けになっている人を想像させる。危険が過ぎ去ったあとの放心も昼寝覚めに似た味わいかもしれない。現実と夢が交錯する曖昧な気分を象の重量感とともに言いとめている。『澤好摩句集』(2009)所収。(三宅やよい)


July 0972009

 ちんぐるま眼の奥の涼しかり

                           本郷をさむ

んぐるま(稚児車・イワグルマ)は高さ十センチほどの茎の先に白い五弁花をつける高原の花だそうだ。山道でふと目に留まる花の名前を知りたいと思うけど植物図鑑の付いた電子辞書を持っていてもなかなか調べがつかない。何かいい方法はないだろうか。出会った植物を名前で呼びかけると、格別の親しみを覚えることだろう。岩蔭に咲いている可憐な高山植物を囲んで楽しそうに談笑している一行に「どうぞ、お先に」と道を譲られると、頂上を目指してやっきになっていた気持ちも歩調も緩んでくる。高山では植物が育つのに平地に比べて何倍も時間がかかるという。山頂付近に群生するちんぐるまを見つつ、山の冷涼な空気に触れていると、都会にいるときより自分の眼が澄んできて遠くまで見渡せそうな気分になるのだろう。この「涼し」にそんな清々した気持ちも含まれているように思えた。『物語山』(2008)所収。(三宅やよい)


July 1672009

 明易し小樽に船の名を読んで

                           ふけとしこ

樽駅の改札を抜けると広い坂下に青い海と港が見える。小樽はこじんまりしてどこか懐かしい雰囲気を持った街。伊藤整、小林多喜二、左川ちか、この地に育った文学者も多い。未知の土地を訪れ早く目覚めた朝、宿のまわりを散策するのは旅の楽しみの一つだ。夏暁のひやりとした空気の中をまだ人気のない運河沿いを歩いているのだろう。つれづれに停泊した船の横腹に書かれた名前を拾い読む。句を読み下せば「読んで」は「呼んで」にも通じ、船の名を読むと同時に呼び掛けているようなあたたかさを感じる。船の赤い喫水線に寄せては返す波、そしてかもめの声。船を起点として朝日にきらめく港の風景がよみがえってくる。いま時分の北海道はいちばん良い季節。夏の小樽のすがすがしい空気まで感じられるようだ。『インコに肩を』(2009)所収。(三宅やよい)


July 2372009

 ベルリンの壁の破片や夏期講座

                           中村鈴子

が小さい頃、ベルリンの壁は冷然と存在していた。家族に会うために壁を越えようと逮捕された話、銃殺された話。壁一枚で祖国分断される理不尽さを社会の授業で何度か聞かされた。ベトナム、朝鮮、ドイツ、第二次大戦から冷戦にいたる分断の構造が続いていた時代、ソ連や東欧諸国がいまのような枠組みになるとは誰も考えていなかっただろう。ベルリンの壁が壊される映像は感動的で新しい時代が来る予感の高まりに誰もが興奮したに違いない。それから20年。すでにベルリンの壁の破片は歴史的遺物になり夏期講座の机の端に置かれている。東西冷戦構造の説明のあと、先生は壁の破片を持ち上げて言うのだろう。「これがベルリンの壁の一部です」受講する生徒たちにとってその破片から当時の世界を想像できるか、夏期講座を受けている今の現実につなげることができるか。あとは生徒たちの想像力次第ということだろう。『ベルリンの壁』(2005)所収。(三宅やよい)


July 3072009

 水中に母の隠れ家真桑瓜

                           磯貝碧蹄館

舎の裏庭の噴井戸に大きな真桑瓜がごろんと沈められているのだろう。冷蔵庫ではなく片蔭に置かれた盥や噴井に冷やされているスイカや瓜は懐かしく記憶に残る光景である。「隠れ家」という秘密の匂いのする言葉と真桑瓜が響きあって、とてもいい雰囲気だ。オール電化された今の家では家事も早々に終わってしまうけど、昔の母は忙しかった。子供達には夏休みがあるけれど、日常の家事に休みはない。朝から晩まで家族のために台所や畑で、忙しく立ち働く母親を大変だなぁと見ていたのだろう。ゆっくり休む時間も場所もないお母さんのために逃げ場所を作ってあげたいと願う心が涼しげな水中の真桑瓜に母の隠れ家を想像したのかもしれない。そう思うとしんとした水に沈んでいるうすみどり色の真桑瓜の影に小さな母が身体を伸ばして休んでいる様子が絵本の一場面のように浮かんできて楽しい。『磯貝碧蹄館集』(1981)所収。(三宅やよい)


August 0682009

 蛇口ひねれば黙祷といふテレビ

                           渡辺信子

月六日広島へ原爆投下された朝である。八時十五分の投下時間になると広島の平和の鐘とともに「黙祷」と、祈りが捧げられる。死者を悼むとはどういうことなのだろう。戦後生まれの私にとって戦争はおそろしいという感覚以外、子供の世代に伝えるものを持たなかったように思う。テレビを通じて運ばれてくる「黙祷」の声に何を持って和することができるのか。この時期になるたびに思う。原爆投下で家族を失った義母は追悼番組が始まると「見とうない。」と、テレビを切っていたそうだ。ちょうど朝食の後片付けの時間、蛇口をひねったら聞こえてきたテレビの声に作者は手を止めることなく汚れた皿を洗い続けるのかもしれない。その日常の行為に作者の鎮魂がこめられている。昭和二十年三月十日、義母と同年齢の作者も家族を失った。「私の中で生きつづける母、弟、妹、空襲に遭って東京の下町に消えた近隣の人々、戦場に散った人々、その鎮魂をと祈りつつ生きてまいりました。俳句を作る中で言霊をいただいて歩んでこられたことに、感謝しております。」と帯には作者の言葉が書かれている。『冬銀河』(2009)所収。(三宅やよい)


August 1382009

 朝顔の顔でふりむくブルドッグ

                           こしのゆみこ

初に読んだとき心にどんときて、それでいてその良さを説明しがたい句というのがあるけど、この句もそうだ。朝顔と顔のリフレインが軽快だけど、「朝顔の」でいったん小休止を置いて読んだ。チワワやプードルのように軽快な動きができずに、大きな顔でぐいっと身体ごと振り向く動作の重いブルドッグと爽やかにひらく朝顔は質感といい、形といいなんら繋がりはない。にもかかわらず「顔」で響き合うこの取り合わせはどこかおかしい。いかめしいブルドッグの顔のまわりにひらひらフリルがついて大きな朝顔になってしまいそうだ。ブルドッグもこのごろは小型化してフレンチブルドッグを連れている人はよく見るけれど、頬が垂れて足の短い大型のブルドッグはほとんど見かけない。ダックスフンドといいコリーといい家のサイズに合わせて小型化する時代なのだろうか。そのむかし、ブルドッグは追っかけられると怖い犬の代名詞だったように思う。そう言えば、ポパイの天敵ブルートもごついブルドッグを連れていたっけ。『コイツァンの猫』(2009)所収。(三宅やよい)


August 2082009

 かはほりのうねうね使ふ夜空かな

                           岩淵喜代子

い頃、暗くなりはじめた屋根の周辺にこうもりはどこからともなく現れた。こうもりの羽根の被膜は背中と脇腹の皮膚の延長で、長く伸びた指を覆うようにして翼となったそうだ。肘を少し曲げたねずみが両手をぱたぱたさせて空を飛んでいるようなもので、鳥のように直線的な飛び方でなく「うねうね」という形容がぴったりだ。夜空を浮き沈みするように飛んでいるこうもりを生け捕りにしようと兄は丸めた新聞の片端に紐をつけこうもりめがけて飛ばしていたが、子供の投げる新聞玉が命中するわけもなくあたりは暮れてゆくばかりであった。深い軒や屋根裏や、瓦の隙間に住んでいたこうもりは住み家がなくなってしまったのか。長い間こうもりを見ていないように思う。夜空をうねうね使いながらこうもりは何処へ飛んで行ったのだろう。『嘘のやう影のやう』(2008)所収。(三宅やよい)


August 2782009

 おはようの野菊おかえりの野菊

                           三好万美

七五の定型からは少しはずれる形。八音、八音で対句の構造を持ち、間に時間的空白を挟み込んでいる。朝出かける時、空き地に咲いている野菊に声をかけて出勤する。そして夕方帰るときには同じ野菊に迎えられ、家路をたどる。野菊のリフレインに「おはよう」と「おかえり」の言葉が爽やかに使われていて、日常の何気ない挨拶と飾り気のない野菊の立ち姿が家族のように近しく感じられる。一口に野菊といっても図鑑を見れば沢山種類があるようだ。伊藤左千夫の「野菊の墓」に出てくるのは「ノジギク」のように日本産の可憐なものだろうけど、アメリカ産のアレチノギクのなどは1メートルに及ぶ背丈に鋸状の葉と猛々しい姿をしている。掲句の野菊はうっそうと生い茂った雑草にまじって目立たずに咲いているイメージ。控え目な花のたたずまいがすがすがしい秋の訪れを感じさせる。『満ち潮』(2009)所収。(三宅やよい)


September 0392009

 天涯に鳥のかほある桔梗かな

                           高柳克弘

梗は五つに裂けた花びらを持つ青紫色のきりっとした姿の花。秋の深い空のはてを飛行する鳥の嘴を突きだした鋭い横顔はこの花弁のかたちと似通うところがある。鳥が空を渡る様は地上からうかがい知ることはできないが、本能の命じるままに飛び続けるその顔は真剣そのものだろう。眼前に咲く桔梗から天上を渡る鳥の横顔に連想が及ぶところが飛躍であり、その飛躍には端正な色の美しさと鋭い輪郭をイメージの共通項として含んでいる。「枯山に鳥突きあたる夢の後」という藤田湘子の句があるが、モノクロームを思わせる湘子の句では夢から覚めたあと夢の中を飛び続けていた鳥は枯山に突き当たって落下してしまうのかもしれないが、この句の鳥はひたすら紺碧の空を飛び続けるのではないか。そしてそのひたむきな飛行は青春の明るさより、終わりのない孤独を暗示しているようにも思えるのだ。『未踏』(2009)所収。(三宅やよい)


September 1092009

 吾亦紅百年だって待つのにな

                           室田洋子

石の『夢十夜』に「百年、私の墓の傍に座つて待つていて下さい。屹度逢ひに来ますから」と死に際の女が男に言い残すくだりがある。墓のそばで時間の経過もわからなくなるぐらい待ち続けた男のそばで真白な百合がぽっかり咲いたとき「百年はもう来てゐたんだな」と男は気づく。掲句はその場面をふまえて作られているように思う。漱石の夢では女は花になって帰ってきたが、吾亦紅になって愛しい人を待ちたいのは作者自身だろう。待っても、待っても二度と会えないことを知りながら、ああ、それでもあの人に会えるなら百年だって待つのにな、と逆説的に表現している。吾亦紅の花に派手さはないが、赤紫の小さな頭を風に揺らす様子がかわいらしい。子供っぽい口語口調で表現されているが、待っても来ない哀しさをこんな表現に転換できるのはあきらめを知ったおとなの感情だろう。秋の暮れまで野に咲き続ける吾亦紅が少しさびしい。『まひるの食卓』(2009)所収。(三宅やよい)


September 1792009

 普段着で猫行く町の秋祭り

                           小西雅子

の間の日曜日犬を連れて公園へ散歩に出かけると、町は祭の最中だった。ああ、そういえば清水さんが増俳に祭りの撮影に行く予定。と書かれていたな、と思い出した。入り組んだ町の路地のあちこちには控所や休憩所らしきものが出来、お神酒や餅がふるまわれていた。髪を明るく染めた女の子が紺の法被にぴったりとした股引をつけきびきびと走り回っている。男も女も額には細く絞った日本手ぬぐいをきりりと巻いて、「いよっ、イナセだね」と声をかけたくなる雰囲気で、町全体が活気づいていた。うちの犬だけでなく、祭の町を連れられてゆく犬はきょろきょろあたりを見回して落ち着きがない。通りをゆく子供もおとなもどこか華やいだ表情をしている。猫は見かけなかったけど、人目を避けて塀沿いを伝い歩きしていたかもしれない。きっとわさわさした町にちろりと視線をくれたきり、素っ気ないようすで通り過ぎていったことだろう。秋祭に浮き立つ町でこころも身体も普段着のまま、過ごしていたのは猫と雀だったかもしれない。『雀食堂』(2009)所収。(三宅やよい)


September 2492009

 あの頃へ行こう蜻蛉が水叩く

                           坪内稔典

の頃っていつだろう。枝の先っちょに止まった蜻蛉を捕まえようとぐるぐる人差し指を回した子供のころか、いつもの通学路に群れをなして赤蜻蛉が飛んでいるのを見てふと秋を感じた高校生の頃なのか。今、ここではない別の場所、別の時間へ読み手を誘う魅力的な呼びかけだ。その言葉に「汽車に乗って/あいるらんどのような田舎へ行こう/ひとびとが祭の日傘をくるくるまわし/日が照りながら雨のふる/あいるらんどのような田舎へ行こう」という丸山薫の「汽車にのって」という詩の一節を思い出した。掲句には、この詩同様ノスタルジックな味わいがある。あいるらんどのような田舎に蜻蛉は飛んでいるだろうか。汽車に乗らなくとも川原の蜻蛉がお尻を振って何度か水を叩くのをじっと見つめれば、誰でもギンヤンマやシオカラトンボを夢中になって追いかけた少年の心持ちになって、それぞれの「あの頃」へ戻れるかもしれない。『水のかたまり』(2009)所収。(三宅やよい)


October 01102009

 名月やうっかり情死したりする

                           中山美樹

年の中秋の名月はこの土曜日。東京のあちこちでお月見の会が催されるようである。仲秋の名月ならずとも、秋の月は水のように澄み切った夜空にこうこうと明るく、月を秋とした昔の人の心がしのばれる。今頃でも「情死」という言葉は生きているのだろうか。許されぬ恋、禁断の恋、成就できない恋は周囲の反対や世間という壁があってこその修羅。簡単に出会いや別れを繰り返す昨今の風潮にはちと不似合いな言葉に思える。それを逆手にとっての掲句の「うっかり」で、「情死」という重さが苦いおかしみを含んだ言葉に転化されている。ふたりで名月を見つめるうちに何となく気持ちがなだれこんで「死のうか」とうなずき合ってしまったのだろうか。霜田あゆ美の絵に素敵に彩られた句集は絵本のような明るさだけど、そこに盛り込まれた恋句はせつなく、淋しい味わいがある。「こいびとはすねてひかりになっている」「かなかなかな別れるときにくれるガム」『LOVERS』(2009)所収。(三宅やよい)


October 08102009

 秋の人時計の中に入りゆく

                           松野苑子

場の大時計の窓からおじさんが顔を出し、「おーいこれに掴まれ」と飛行船から落ちそうな男の子にモップブラシを差し出したのは『魔女の宅急便』ワンシーンだった。実際に大時計にいる人でなく芝生に寝転んで遠方の人を何気なく眺めているとその後ろ姿が公園の時計へ吸い込まれてゆくように見えたともとれる。掲句から連想される情景は様々だけど、「時計」と言う言葉が具体物を超えて静かに刻まれる時間をあらわしているように思えるのは「秋の人」の秋が効いているのだろう。夏のあいだ時間を忘れて働いたり遊んだりしていたのに、はやばやと暮れてしまう一日に覚束なさを感じ、うっすらと冷たさを覚える風に自ずと内省的になってゆく。そう思えば道行く人達がそれぞれ見えない時計に入ってゆくように思えてちょっと不思議な心持になった。『真水』(2009)所収。(三宅やよい)


October 15102009

 水栽培したくなるよな小鳥来る

                           中居由美

休3日間はからっとして気持ちのよい晴天が続いた。玉川上水に沿って歩くと林の奥から様々な小鳥の鳴き声が聞こえてくる。「小鳥」と言えば大陸から渡ってくる鳥ばかりでなく、山地から平地へ移ってくる鳥も含むらしい。鶸、連雀、セキレイ、ツグミ、ジョウビタキなど、小鳥たちの種類もぐっと多彩になるのが今の季節だろう。北九州に住んでいたときは季節によって見かける小鳥の種類が変わったことがはっきりわかったけど、東京に来てからは武蔵野のはずれに行かなければなかなか小鳥たちにお目にかかれない。水のように澄み切った秋空を渡ってくる彼らを「水栽培したくなるよな」と歌うような調子で迎え入れている作者の心持ちが素敵だ。「小鳥来る驚くほどの青空を」という中田剛の句があるが、この句同様、真っ青な秋空をはずむようにやってくる小鳥たちへの愛情あふれる挨拶という点では共通しているだろう。『白鳥クラブ』(2009)所収。(三宅やよい)


October 22102009

 棒切れで打つ三塁打柿熟るる

                           ふけとしこ

さい頃は近所の友だちとよく野球のまねごとをした。まずは男の子に混じって、庭先や路地の奥でささくれのないすべすべの木切れを探す。なかなか好条件の棒切れに出合えず折れ釘で手を引っ掻いたり、指に棘が立つのはしょっちゅうだった。小遣いで買ったゴムボールはあたればあっというまに塀を越してホームラン。そのたびごとにチャイムをならしてボールを探させてもらった。打つ順番はなかなかこなくって外野でぼんやり眺めているとたちまちにボールは後ろに飛び去っていく。走者にボールを当てればアウトとか、あの木まで飛べば三塁打とか、そのときの人数や場所のサイズに合わせてルールを決めていたっけ。たわわに熟れる柿と三角ベース、そんな光景もセピア色の思い出になってしまったが、さて今の子供たちはこの気持ちのよい季節にどんな遊びを記憶に残すのだろう。『インコに肩を』(2009)所収。(三宅やよい)


October 29102009

 ブラジルは世界の田舎むかご飯

                           佐藤念腹

かごは自然薯のつるにつく小さな肉芽。指の先ほどの丸い実をご飯に炊き込むとむかご飯になる。虚子の「季寄せ」を何気なくめくっているうち、オリンピック開催で話題のブラジルとむかご飯との取り合わせに目がとまり、新鮮な驚きを感じた。新潟出身の念腹(ねんぷく)は1913年にブラジルへ移住した。戦前は長男が家督のすべてを継ぐ慣わしだったから農家の次男、三男は故郷を出て新天地を切り開くしかなかった。彼もまた大農家になることを夢見て「世界の田舎」であるブラジルへ人生を賭けて渡り、未開の原野を切り拓いていったのだろう。つましい食卓に出された芋はむかごなのか、むかごに似た現地の芋なのかはわからないが、ブラジルの「むかご飯」に日本への望郷の思いをかぶせている。彼の地で農業に俳句に力を尽くした念腹の地元新潟には掲句の句碑が建てられているそうだ。「虚子季寄せ」三省堂(1940)所載。(三宅やよい)


November 05112009

 巻き貝からのりだす羊富士新雪

                           竹中 宏

週のはじめよりぐっと気温が下がり冬めいてきた。札幌からは初雪の報が届いた。関東ではさすがに雪はまだだが、遠くに臨む富士山は白い雪をかぶっている。東京で見る富士は裾野の部分は隠れて空中に白く雪をかぶった山頂が浮いているように見える。掲句では羊の白さと冠雪をダブらせているのだろう。くるりと巻いた巻き貝から羊がのりだす絵柄は不思議かつユーモラス。それぞれの言葉が紡ぎだすイメージに読み手を立ち止まらせつつ次元の違う世界の手触りを紡ぎだすことが句の狙いなのだろう。句集には最大限に読み手の想像力を見積もった言葉の連鎖で綴られた句が並び読み解くのは難しい。こういう句はあらかじめ落とし所をきめて作られる句とは違い、おそらくは作者も言葉を探り当てながら進んでいく。どこで完成を見切るかが作り手の技といえるかもしれない。『アナモルフォーズ』(2003)所収。(三宅やよい)


November 12112009

 拾ひたる温き土くれ七五三

                           山西雅子

うすぐ七五三。近くの神社で晴れやかな着物にぼっくり下駄で歩く女の子や、ちっちゃな背広に臙脂のネクタイをしめた男の子と会えるかもしれない。普段は身軽な格好であちこちを飛び回っている子供たち、最初は嬉しくても着なれない衣装の窮屈さにだんだん不機嫌になることも多い。神主さんのお祓いまでの順番待ちや記念撮影の準備など、こうした祝い事には待ち時間がつきものだ。晴れ着を着た子が手持無沙汰に日向にかがみこんで足元の土を手でいじっている。おとなに手をひかれあちこち歩いて草臥れてしまったのだろうか。七五三と言えば、晴れ着姿や千歳飴に目がいきがちだけど、日溜りにしゃがみこんだ子供が手にすくった土くれの温もりは何気ない動作を背後から見守るやさしい親のまなざしにも通じる。神社に降り注ぐ小春の日差しに佇む親とその膝元にしゃがむ幼子。子の成長を寿ぐ特別な日の親子のひとときが映像となって浮かびあがってくる。『沙鴎』(2009)所収。(三宅やよい)


November 19112009

 縄跳びの入口探す小春かな

                           河野けいこ

学生のころ休み時間になるたび教室の戸口の脇にぶら下げてある大縄を持って校庭へ駆けだしたものだ。今の学校でも運動会などで大縄跳びが学年対抗の種目になっているところも多いのか、クラス全員揃って跳んでいる姿をときどき目にする。それにしても「お嬢さん、おはいんなさい」と歌で誘われても回る大縄へ横から滑り込むタイミングはなかなか難しい。身体でリズムをとりながらひょいと入らないと縄をひっかけてしまう。なんせ中で友達が3人4人跳びながら待っているのだから中断させるわけにはいかない。ヒュンヒュンと地面を打って縄を回す音が間近になり、一瞬をねらってとび込む緊張感。ああ、そういえばあれは縄跳びの入口を探していたのかもしれない。やわらかな小春日和の中でタイミングをうかがってまだとび込めずにいる子を見かけたら「あそこに入口があるよ」そっと教えてあげよう。『ランナー』(2009)所収。(三宅やよい)


November 26112009

 白菜のうちがわにいるお母さん

                           小枝恵美子

くなって白菜がおいしい季節になった。二つに裂いた白菜を大きな樽や甕いっぱいに漬けこんでいくのは日本でも韓国でも一家の主婦が中心になってする仕事。日差しのあふれる冬の午後、日に当てるべく白菜を自分のまわりにいっぱいに並べて干しているお母さんがいる。「うちがわ」という表現はそんな場所とともに、白菜を食べたときじわった染み出すうまみに母を感じることも含まれるのかもしれない。白菜や大根を漬けるだけの場所も余裕もない都会とは違って、地方の庭先や納屋の手前では今日もうずたかく積まれた白菜をいくつもいくつも並べてせっせと働いているお母さんがいるに違いない。掲句を読んでおいしい白菜漬が食べたくなった。「白葱がねむいねむいと煮えている」「恋人は美人だけれどブロッコリー」など句集にはおいしそう、かつユニークな冬野菜が並んでいる。『ベイサイド』(2009)所収。(三宅やよい)


December 03122009

 風になりたし鶴の絵本をひろげいる

                           酒井弘司

い切り寒い日に氷のかけらをこぼしながら餌をついばむ鶴を見に行きたい。この句を読んでふと思った。鹿児島県出水、山口県八代には何度か足を運んで鶴を見に行った。山裾まで開けた田圃に飛来する鶴は灰色がかった鍋鶴で、群れになって飛ぶ姿はたくましい渡り鳥という印象だった。野生の丹頂鶴はまだ見たことがない。親の膝にのって絵本を読んでいるのだろうか、ひろげている絵本が鶴の翼を思わせる。「風になりたし」とつぶやいているのは誰なのだろう。鶴の絵本を食い入るように眺めている子供とも考えられるし、絵本の鶴と一体化した子を背後からささえる親ともとれる。ともに絵の中を飛ぶ鶴をはげます風になってお話の中に入り込んでいるのかもしれない。美しい舞鶴のイメージとともに鶴と風の関係に想像が膨らむ一句である。『谷風』(2009)所収。(三宅やよい)


December 10122009

 魔女の目の小さくなりて蕪汁

                           加藤直克

ズの魔法使いに出てくる西の魔女、白雪姫に毒林檎を売りに来る意地悪なお妃、お話に出てくる魔女たちは黒いマントに身を包み、三角のとんがり頭巾の影から邪悪そうな眼を光らせて相手の様子をうかがっている。思えばステレオタイプなイメージだが、悪役がいるからこそ主役が引き立つ。魔女は大事な役回りだ。掲句は「小さくなりて」というところで魔女に対する固定的な見方を少しめくりあげてくれる。真白な蕪をあっさりとした出し汁で時間をかけて煮込み、味噌で仕立てた蕪汁。アツアツの蕪をほくほく食べながら、満足のあまり魔女が目を細めていると思えば、魔女の顔が愛敬のある表情へ一変する。そうした映像的面白さとともに、日本的「蕪汁」と西洋的「魔女」の取り合わせがミスマッチなようでバランスがよく、どこかしら滑稽な味わいを感じさせるところにこの句の魅力があるように思う。『葆光』(2009)所収。(三宅やよい)


December 17122009

 毛糸編む母の周りに集まりぬ

                           後閑達雄

車の座席や病院の待合室で編みかけのものを袋から取り出してせっせと編み針を動かす姿をこの頃はとんと見かけなくなってしまった。今迄毛糸編みに見向きもしなかった女の子が編み針と毛糸を購入してマフラーを編み始めたらボーイフレンドが出来たものと相場が決まっていたが、この頃はどうなのだろう。昔のお母さんは古くなったチョッキやセーターをほどいた毛糸を蒸気でのばし、違うものに再生させていた。せっせと編み針を動かすお母さんのまわりに子供たちが集まって、学校のこと、友達のことなどしきりに話しかける。お母さんはふんふんと頷きながら手は休ませない。手編みのせーターもあまり着ることのなくなった昨今、このような牧歌的風景は少なくなったことだろう。だからこそ昔はありふれていたこんな光景が懐かしい。ゆったり流れる冬の夜の時間。母を囲んで丸く集まった家族の温もりが毛糸の暖かさをともに伝わってくる句である。『卵』(2009)所収。(三宅やよい)


December 24122009

 雪が来るコントラバスに君はなれ

                           坪内稔典

ントラバスはチェロよりも大きく、ジャズの演奏にはベースとして登場する。低音の暖かい音色が魅力の楽器である。チェロよりはややロマンチックでないかもしれないが、ボンボンと響くその音が楽曲の全体をおおらかにひき締める大切な役柄を担っている。真っ黒な雪催いの空が西から近づいてきて、今夜は吹雪くかもしれない。その時は僕がしっかり両腕で受けとめてあげるから君はコントラバスになりなさい。やさしい言葉だけどしっかりした命令形が頼もしい。これは最高に素敵な求愛の言葉。二人だけの夜にこんな言葉をささやかれたら女性はすぐに頷いてしまうだろう。世の男性たちも自分の心持ちをお洒落に表現する言葉の使い手になってひそかに思いを寄せる女性たちを口説いてほしい。今夜はクリスマスイブ、雪と求愛が一年で一番似合う夜が訪れる。『水のかたまり』(2009)所収。(三宅やよい)


December 31122009

 人類に空爆のある雑煮かな

                           関 悦史

ーザン・ソンタグの「他者の苦痛へのまなざし」(みすず書房)に次のような記述がある。「戦争や殺人の政治学にとりまかれている人々に同情するかわりに、彼らの苦しみが存在するその同じ地図の上にわれわれの特権が存在し、或る人々の富が他の人々の貧困を意味しているように、われわれの特権が彼らの苦しみに連関しているのかもしれない一われわれが想像したくないような仕方で―という洞察こそが課題であり、心をかき乱す苦痛の映像はそのための導火線にすぎない。」人類はどこに向かおうとしているのか。テレビの空爆の映像を雑煮を食べながら見ている私たちの日常。距離的にも実感も遠いその感覚を俳句で表現するのは難しいが、年神に供えるめでたい雑煮が空爆と並べられることでうっそりとした不安の影をつくる。間尺に合わない言葉に触発されて今まで意識もしなかった「雑煮」の字面に荒んだ風景が滲む。パレスチナ、ガザ地区への空爆で始まり、政権交代、デフレ、貧困、に揺れた2009年も今夜で終わり、明日からは新しい年がはじまる。「新撰21」(2009)所載。(三宅やよい)




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