夏のボーナス世論調査で夫の小遣い0円が半数。出る企業はまだマシですぞ。(哲




2009ソスN7ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0672009

 孫悟空白雲木の花と馳す

                           大串 章

悟空とは、また懐しや。いまでは漫画化やアニメ化もされていて、誰にもお馴染のキャラクターだが、作者や私の子供時代には、その活躍ぶりは活字の世界の中にしかなかった。ということは、誰もがそれぞれに固有の孫悟空像をイメージしていたので、世界中には無数の孫悟空が「存在」したわけだ。だから悟空がキント雲に乗って空を馳せ回るといっても、この雲のイメージも、それぞれに違っていたはずである。『西遊記』の原文にキント雲の色や形状の説明がなされているのかどうかは知らないけれど、愛すべき猿の妖怪が乗るのである以上、あまり邪悪な印象を与える黒雲を想像する子供はいなかったのではあるまいか。作者もまた、真っ白な雲に飛び乗り如意棒を携えて空を行く颯爽とした姿に憧れていたのだろう。そんな少年時から幾星霜の時を隔て、たなびくように白い花を咲かせた白雲木(はくうんぼく)を眺めているうちに、ふと孫悟空を思い出し、これぞあのキント雲ではないかと、膝を叩いたときの句だ。楽しい句だが、それにとどまらず、二度と戻らぬ子供時代への愛惜の情も滲んでいて、読者の心をしんとさせる。なお、私の手元の歳時記に「白雲木」の項目は見当たらないが、この木は「エゴノキ」と同属であり、花期(初夏)も形状(白雲木のほうが葉が大きくて丸い)もよく似ているので、当歳時記では夏の季語に分類しておく。俳誌「百鳥」(2009年7月号)所載。(清水哲男)


July 0572009

 愛されずして沖遠く泳ぐなり

                           藤田湘子

っとも鮮烈で純粋な愛は片思いであると、先日韓国ドラマを見ていたら、そんなセリフが出てきました。愛に関する言葉など、どんなふうに言ったところで、身に惹きつけてみれば、長い人生の中でそれなりに頷かれる部分はあるものです。岸から遠くを、激しく腕を動かしながら、若い男が泳いでいます。見れば海岸には、思いを寄せる一人の女性の姿が見えています。遠くて表情まではわからないものの、友人と並んで、屈託なく笑ってでもいるようです。どんなにこちらが愛したところで、その人に愛されるとはかぎらないのだと、泳ぎの中で無残にも確認しているのです。夏の明るすぎる光を、いつもよりもまぶしく感じながら、どうにもならない思いの捨て場を、さらに探すように沖へ泳いでゆきます。夏休み、と聞くだけで妙に切なくなるのは、ずっとその人のことを思うことの出来る長い時間が、残酷にも与えられてしまうからなのです。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


July 0472009

 洗髪乾きて月見草ひらく

                           松本たかし

の月見草は、黄色いマツヨイグサでなく、うすうす白い本当の月見草だろうか。鎌倉浄明寺のたかしの家は庭が二百坪もあり、草花から梅、松、桜の大樹までさまざまな草木が茂っていたというから、ほとんど現存していないという月見草も、ひっそりと生き延びていたかもしれない。この句につづいて〈洗髪乾きて軽し月見草〉とある。これなら普通に落ちついた句という印象だが、掲出句のような、すっとふきぬける夕風は感じられない。掲出句は、洗髪、乾、月見草、の漢字を、最後の、ひらく、が受けとめて、涼しい風がいつまでも吹く中で、月見草が夕闇にその色をとかしてゆく。句集の序文で虚子は、たかしの句を「詩的」であり「写生句でありながらも、餘程空想化された句のやうに受取れる」と言っている。そういわれると、本来の月見草の持つ儚さが、洗髪が乾くという現実と呼び合って、いっそう幻のようにも思えてくる。『松本たかし句集』(1935・欅発行所)所収。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます