Nj句

July 0672009

 孫悟空白雲木の花と馳す

                           大串 章

悟空とは、また懐しや。いまでは漫画化やアニメ化もされていて、誰にもお馴染のキャラクターだが、作者や私の子供時代には、その活躍ぶりは活字の世界の中にしかなかった。ということは、誰もがそれぞれに固有の孫悟空像をイメージしていたので、世界中には無数の孫悟空が「存在」したわけだ。だから悟空がキント雲に乗って空を馳せ回るといっても、この雲のイメージも、それぞれに違っていたはずである。『西遊記』の原文にキント雲の色や形状の説明がなされているのかどうかは知らないけれど、愛すべき猿の妖怪が乗るのである以上、あまり邪悪な印象を与える黒雲を想像する子供はいなかったのではあるまいか。作者もまた、真っ白な雲に飛び乗り如意棒を携えて空を行く颯爽とした姿に憧れていたのだろう。そんな少年時から幾星霜の時を隔て、たなびくように白い花を咲かせた白雲木(はくうんぼく)を眺めているうちに、ふと孫悟空を思い出し、これぞあのキント雲ではないかと、膝を叩いたときの句だ。楽しい句だが、それにとどまらず、二度と戻らぬ子供時代への愛惜の情も滲んでいて、読者の心をしんとさせる。なお、私の手元の歳時記に「白雲木」の項目は見当たらないが、この木は「エゴノキ」と同属であり、花期(初夏)も形状(白雲木のほうが葉が大きくて丸い)もよく似ているので、当歳時記では夏の季語に分類しておく。俳誌「百鳥」(2009年7月号)所載。(清水哲男)


July 1372009

 雨宿りのやうに棲む人日々草

                           北野紙鳥

の人はどんな人なのか。何をしている人なのだろう。と、想像をかき立てられる。「雨宿り」は不意の雨から一時避難することだから、この人もそのように棲んでいるわけだ。傍目には、かなり落ち着かない生活をしている人のように思える。職業柄だろうか、雨の降る日は家でじっとしているが、それ以外の日は日曜日だろうと祝日だろうと、どこかに出かけていく。あるいは出かけたかと思うと、間もなく戻ってきて、またそそくさと出かけていったりするのかもしれない。またもっと平凡に考えれば、住居は完全に寝るためだけの場所と心得ていて、ほとんど家にはいない人とも解せる。いずれにせよ、この人は家でくつろいだりする時間を全く持っていないようなのである。そのあたり、他人事ながら作者には気掛かりで、その人の家の前を通りかかると、ついつい主がいるのかどうかを確認したくなってしまう。そして今日、その人の庭に日々草が可憐に咲いているのに気がついた。可憐ではあるが、その家の主と同様に、この花はその名の通りに日々咲き変わる花でせわしない。思わず微笑すると同時に、作者は花を育てる心を持った家の主の優しい心根に触れたような気がして、ほっとした気分になったのでもあった。そして、一読者である私もまた……。俳誌「梟」(2009年7月号)所載。(清水哲男)


July 2072009

 兵泳ぎ永久に祖国は波の先

                           池田澄子

索の便宜上、この句は夏の部「泳ぎ」に入れておくが、本質的には無季の句だ。「兵」が「泳ぐ」のは遊泳でもなければ鍛練などのためでもないからである。難破によるものか、あるいは撃沈されたのか。いずれにしてもこの兵(等)は母艦を離れることを余儀なくされ、荒波に翻弄されるように泳いでいる。必死に泳ぐ方向は、実際には不明なのだとしても、彼の頭の中では「祖国」に向いている。そして、その目指す祖国は絶望的に遠い。到達不能の彼方にある。そのようにして、かつての大戦では多くの兵が死んでいった。その無念極まる死を前にした彼らの絶望感を、「永久に祖国は波の先」と詠む作者の心情はあまりに哀しいが、しかしこれが現実だった。「祖国」とは、その地を遠く離れてはじめて実質化具体化する観念だろう。ましてや絶望の淵にいる人間にとっては、祖国は観念などではあり得ず、まぎれもない実体に転化するだろう。寺山修司の有名な歌「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の祖国には、このような実質感ははじめから存在しない。このときに寺山修司はあくまでもロマンチックであり、池田澄子はリアリスティックである。今年もまた敗戦忌がめぐってくる。そしていまだに、かつての兵(等)は波の先の彼方に祖国を実感し、泳ぎつづけている。「俳句」(2009年7月号)所載。(清水哲男)


July 2772009

 腹黒き女は急ぐ油照

                           久保純夫

っとしていても脂汗が流れてくる暑さ。「油照」とはよくも名づけたり。そんな暑さの中にいると、たいていの人は半ばヤケ気味になる。判断力や思考力も減退してくる。そんなだから、こんな句もできたりする。句の「女」は複数だろう。単数だったら、「女は」ではなく「女が」になるははずだからだ。つまり、多くの人がだるそうにのろのろ歩いているのに、腹黒女だけは急ぎ足になっているということだ。そんなことは傍目にわかるわけもないけれど、なにせ作者はヤケ気味なのであるからして、急いでいる女性がみな何かを企んでおり、それを成就するための早足と見えてしまっている。暑さを物ともせずに歩いている人は、見方を変えれば頼もしくも颯爽として見えるものなのだが、暑さにまいっている作者には、とてもそうは見えないのである。つい、意地悪な目になってしまう。そして、この腹黒の「黒」の連想は、黒色が熱さを吸収するという常識にも添っている。この句がなんとなく可笑しいのは、我々にその常識があるからで、腹黒女は身体の芯まで猛烈に暑いくせに、よくもまあ涼しい顔して糞暑い表を歩けるものだと、意地悪熱に拍車がかかる理屈である。それもこれもが、人間には制御できない自然の成り行きのせいだ。願わくば、この夏が油照をあまりもたらしませんように。『フォーシーズンズ』(2009)所収。(清水哲男)


August 0382009

 夏館時計壺本みな遺品

                           松野苑子

の句にぴったりの洋館が近くにある。三鷹市の玉川上水のほとりに建っている旧山本有三邸だ。現在は山本有三記念館として一般公開されていて、たまに出かけてゆく。大正末期の本格的な欧風建築で、晩餐客がくつろぐドローイングルーム(応接間)や、それぞれにデザインされた三つのマントルピース(暖炉)があり、壁やドアにも凝った装飾がほどこされている。どこをとっても、大正ロマンの香りがする。作者も、おそらくこのような館に入ったのだろう。表は焼けるように暑いが、建物に入るとひんやりとしていて心地よい。室内には亡き主人愛用の品が生前のままに展示されている。その一つ一つを見ているうちに、入館前からわかってはいたことだけれど、あらためてそれらが「みな遺品」であることに気づかされるのだ。このことは往時からの時の経過や隔たりを思わせるだけではなく、人間存在のはかなさへと作者の気持ちを連れて行く。あわあわとした虚無感が、館の内部に漂いはじめる。それがまた精神的な涼味にも通じるわけで、句の「夏館」の「夏」の必然性をもたらしている。どうという句でもないように写るかもしれないが、「時計壺本」の質感がつりあう館ならではの抒情性が滲み出た佳句だと思った。『真水』(2009)所収。(清水哲男)


August 1082009

 秋日差普通のひとが通りけり

                           笹尾照子

書きに「左足骨折入院」とある。このところの私は、いささか歩行に困難を覚えるときがある。腰痛と加齢によるものだろう。時々ふらついてしまう。むろん骨折による歩行不能に比べれば、はるかに軽度な障害だけれども、この句にはしみじみと納得できる。いつか歩行不能の人が「人間には歩ける人と歩けない人の二種類ががいる」と言ったのを覚えているが、これまた納得だ。入院してベッドに縛りつけられた作者は、たまたま窓外を通りかかった人を見て、猛烈な羨望の念にとらわれた。どこの誰とも知らないその人は、ただいつものように歩いているだけなのだが、作者にしてみると、そのこと自体が羨ましくて仕方がない。ふだんなら気にもならない「普通の人」が、こんなにも生き生きとまぶしく写るとは……。「普通の人」という普通の言葉が、それこそこんなにも普通ではなく輝いて見える句も珍しいのではないか。作者の手柄は、この「普通の人」の措辞を発見したところにある。当たり前の言葉のようだが、けっしてそうではない。そしてたまたま秋の入院なのだが、秋の日差しには透明感があり、事物の輪郭をくっきりと描き出す。この「普通の人」もくっきりとした輪郭と影を持ちながら歩いていった。それがまた、作者の羨望の念をいやがうえにも掻き立てたのである。『音階』(2009)所収。(清水哲男)


August 1782009

 ジャンケンの無口な石が夕焼ける

                           西本 愛

焼けの情感を描いて、革新的な句だ。大正期の有名な童謡に「ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む ぎんぎんぎらぎら 日が沈む」ではじまる「夕日」(葛原しげる作詞)がある。この歌を紹介する絵本などの絵の構図は、例外なく大夕焼けをバックにして遊ぶ子供たちの小さなシルエットが浮かんでいるというものである。歌詞の内容がそうなのだから、そのように描いてあるとも言えるのだけれど、この構図が示しているのは、もっと深いところで私たち日本人の美意識につながっているそれなのだと思う。大自然の前の点景としての人間は、自然の永遠性と人間存在のはかなさを物語っているのであり、この構図を受け入れるときに、束の間にせよ、私たちの情感は安定する。島崎藤村ではないが、「この命なにをあくせく」と、自然に拝跪する心が生まれてくる。掲句を革新的と言うのは、句がそのような予定調和的な情緒安定感を意識的に破ろうとしているからだ。子供らのシルエットをぐいっと精度の高い望遠レンズでたぐり寄せたような構図が、作者の従来の情緒に落ちない意思を明示している。ここで昔ながらの美の遠近法はいわば逆転しているわけで、人間中心の美意識が芽生えている。と、ここまではひとつの理屈にすぎないけれど、たかが「ジャンケンの石」に夕焼けを反映させてみせただけで、いままでには無かった夕焼けの情感が生まれていることに、私は覚醒させられたのだった。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


August 2482009

 惜しい惜しい惜しい惜しいと法師蝉

                           北 登猛

るほど、法師蝉の鳴き声はそんなふうにも聞こえる。最後は「惜しいよおっ」と駄目押しするようにして飛び去ってゆく。何がそんなに惜しいのか。作者ならずとも、だれにだって「惜しい」ことがらの一つや二つはあるのだから、それぞれの「惜しい」思いで聞くことになる。このように虫や鳥の鳴き声を人間の言葉のように聞くことを「聞きなし」と言うが、有名な例ではウグイスの鳴き声を「法華経」、ホトトギスのそれを「特許許可局」「テッペンカケタカ」などがある。Wikipediaによれば、この「聞きなし」という用語を初めて用いたのは、鳥類研究家の川口孫治郎の著書『飛騨の鳥』(1921年)と『続 飛騨の鳥』(1922年)とされているそうだ。そんなに昔のことじゃない。なかなかにオツなネーミングだと思う。句に戻れば、「惜しい」が四度も繰り返されており、このしつこさがまた残暑厳しき折りの風情を伝えていて秀抜である。今日もまた各地で「惜しい」の連発が聞こえるだろう。あと一週間経って、選挙後に身に沁みて聞きなす候補者もいるだろう。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


August 3182009

 ひらがなの国に帰りて夕芒

                           佐藤清美

集でこの句の前に置かれた「西安のビールは甘きひつじみず」などから推して、中国旅行から戻ったときの句だと思われる。私のささやかな海外旅行体験からすると、どこの国に出かけても言葉には難渋するが、いままでいちばんストレスを覚えたのは中国と韓国でだった。理由は単純。お互いなんとなく顔が似ているせいで、つい楽にコミュニケーションができそうに錯覚してしまうからである。ましてや中国は漢字の国だ。街の看板やイルミネーションなどでも、おおかた察しのつくものが多い。だから余計にコミュニケートしやすいと思いがちになる。ところが、どっこい。他の外国でと同じように、なかなか意思疎通ができないので、イライラばかりが募ってしまう。三十数年昔にギリシャに行ったことがあって、街のサインなど一文字も読めなくて苦労したけれど、しかしさほどストレスは覚えなかった。はじめから周囲の人々がまったくの異人種なので、言葉が通じなくても当たり前と早々に覚悟が決まってしまうからだろう。作者も漢字の国を旅行中に、おそらく相当のストレスを感じ続けていたのではあるまいか。そのストレスが「ひらがなの国」に戻ってほどけた安堵の心が、よくにじみ出ている。風にそよぐ「夕芒」のたおやかな風姿は、まさに「ひらがな」そのものなのである。『月磨きの少年』(2009)所収。(清水哲男)


September 0792009

 ネクタイをはずせ九月の蝶がいる

                           坪内稔典

便宜上「秋の蝶」に分類しておく。が、九月の蝶はまだ元気だ。元気だが、私たちは蝶がやがて「秋の蝶」と言われる弱々しい存在になっていくことを知っているので、その元気さのなかに、ちらりと宿命の哀しさを嗅ぎ取ってしまう。このときに、例えれば作者もまた「九月の蝶」みたいな存在なのだ。だから、この句は作者自身への呼びかけである。「ネクタイをはずせ」と、自分自身に命令している。ネクタイは男の勤め人のいわば皮膚の一部みたいなものなので、日頃は職場ではずすことなど意識にものぼらない。それが、たまさかの蝶の出現でふと意識にのぼった。と言っても、はずせばただ解放された気分になってセイセイするというものでもないことを、作者は承知している。はずした先は、「秋の蝶」的な弱々しくも不安な気分にもなるであろうからだ。でも、あえて「はずせ」と言ってみる。自分はもはや、そうした年齢にさしかかってきた。はずせと誰に言われなくても、はずすときは確実に訪れてくる。自分の意志からではなく、社会の要請によってである。そんな哀しき現実の到来を前にして、みずからの意思でネクタイをはずしてみようかと、作者は蝶を目で追いながら、なお逡巡しているようにも思えるなと、ネクタイをはずして久しい私には受け取れた。『高三郎と出会った日』(2009)所収。(清水哲男)


September 1492009

 二十世紀ちふ梨や父とうに亡き

                           前田りう

葉県松戸市に住む少年が、裏庭のゴミ捨て場に生えていた小さな梨の木を偶然発見した。それが「二十世紀梨」で、1888年(明治21年)のことだったという。私が子供だったころ、友人とよく「二十一世紀になったら、この名前も変わるのかなあ」などとよく話題になった。しかし現在、名前の変更もなく二十世紀梨は依然として健在である。この句は「二十世紀ちふ梨」の「ちふ」に注目。「と言う」の意味で、発音は「tju:」だ。つまり会話体だ。似たような使われ方の「てふ」があるけれど、こちらは「tjo:」としか読めないから、ふだんの会話で使うことはない。あくまでも書き言葉である。いささか気取った言葉にも感じられ、当今流行の旧かなコスプレ・ファンが好んで使いそうな雰囲気も備えている。「ちふ」の「tju:」は、私の育った山陰地方などでは完全な日常用語だったが、これを女性が使うと、ちょっと伝法な物言いにも聞こえた。ましてや作者は東京在住なので、普通は「te.ju:」だろうから、これは意図的な「ちふ」だ。あるいは父上の口癖だったのかもしれないけれど、それでも女性が句に用いると伝法は伝法である。この伝法な言葉遣いがあるせいで、「とうに」父を亡くした作者の思いがいまさらのように濃密によみがえってくるようだ。この「ちふ」が「てふ」だと、凡句になってしまう。語感によほど敏感なひとでないと、こういう句は詠めないだろう。『がらんどうなるがらんだう』(2009)所収。(清水哲男)


September 2192009

 反逆す敬老の日を出歩きて

                           大川俊江

の句は既に一度取り上げているが、再度付け加えておきたい。作者は「敬老の日」の偽善臭に怒っている。口では「敬老」と言いつつも、本音は老人を疎んじる社会のありようは、年寄りになってみれば誰にもわかることだ。おじいちゃんおばあちゃんと、人としてまともに向き合うのは、いつも幼児だけという現実は哀しい。つい先日も新聞を読んでいたら、こんな記述に出会った。年寄りには「枯れた味」こそが似合うし好ましい。でも、最近は枯れ損なった老人が増えてきた。原因は、このところのギスギスした社会のせいだ‥、と言うのである。一見もっともらしいけれど、「ふざけるな」と私は思った。この記事を書いた記者は、自分が偽善の片棒を担いでいることに気がついていない。あるいは気がついていても、知らん顔をしているのだ。彼が書いているのは「年寄りは年寄りらしく大人しくすっこんでろ」という本音の偽善的表現に他ならないからである。現今の社会の現実がどうであれ、年寄りにこうした杓子定規な価値観を押し付けてきた風潮は、昔からずっと変わっては来なかった。この考えは、明白に姥捨て思想につながっていく。枯れろとか好々爺になれとかなどは、余計なお世話なのである。だから、家族の反対を振り切って「出歩く」気持ちに駆られるのは、理の当然である。むしろ、こうしてささやかに出歩くこと程度が、老人に「反逆」と意識される社会の偽善の厚みこそが問題だろう。今年も「敬老の日」を季題に多くの句が詠まれるのだろうが、ユメユメ「私、枯れてますよ」みたいな句を、わざわざこちらから世間に提供してはなりませぬぞ。自分で自分のクビを締めることになるのですぞ。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


September 2892009

 予備校に通ひし兄や秋深し

                           大崎結香

串章から、彼も選考委員のひとりである「神奈川大学全国高校生俳句大賞」のアンソロジーをもらった。最近の高校生は、どんなセンスをしているのか。好奇心を抱いて読んでみたが、意外にみんな大人しくて真面目だった。もっともみな選者の目を通ってきた句なので、選者のセンスが現れてもいるのだろうが、もっと大きいのはやはり俳句様式そのものの力によるセンスの発現のさせ方なんだろうなと思ったことだった。高校生くらいでは、なかなか型破りな句は難しいようである。ただ掲句のように、さすがに素材的には大人とは違うところに目が行っている。当たり前と言えばそれまでだけど、これが新鮮で面白かった。作者は大阪の高校二年生。そろそろ大学受験が気になる時期である。よほどの秀才でないかぎりは、気になりだすと不安が次々にわいてくる。そんなときに、かつて受験に失敗した兄が予備校に通っていたことを思い出した。そのころの作者は、兄の予備校通いなんて、ほとんど無関心だったのだろう。だが、秋も深まってきたいまは違う。無関心どころか、他人事とは思えなくなってきたのである。当時の兄の苦しそうな心の内までが見えてくるようだ。いまのうちから計画を立て、一生懸命に勉強しておかないと、私もまた……。老年に入った私のような読者が読んでも、何だかはらはらさせられる句だ。さきほどの俳句様式ではないが、受験体制がもたらすパワーもまた、世代を選ばず人を圧し律してくるものなのだろう。『17音の青春 2009』所載。(清水哲男)


October 05102009

 さんま食いたしされどさんまは空を泳ぐ

                           橋本夢道

えを詠んだ句を、私は贔屓せずにはいられない。あれは心底つらい。いまでも鮮明に覚えているが、敗戦直後は三度の食事もままならず、やっと粥が出てきたと思ったら、湯の中に米が数十粒ほど浮かんでいるという代物だった。これでは腹一杯になるはずもないと、食べる前から絶望していた記憶。いつか丼一杯の白飯を食べてみたいというのが人生最大の夢だった記憶。掲句は有名な「無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ」を第一句とする連作のうちの一句だ。「さんま」が食いたくて、矢も盾もたまらない。今日の読者の多くは、空を泳ぐさんまの姿を手の届かぬ高価な魚の比喩として理解し、たいした句ではないと思うかもしれない。無理もない。無理もないのだけれど、この解釈はかなり違う。なぜなら、この空のさんまは、作者には本当に見えているのだからだ。飢えが進行すると、一種の幻覚状態に入る。ときには陶酔感までを伴って、飢えていなければ見えないものが実際に見えてくるものだ。子供が白い雲を砂糖と思うのは幻覚ではなく知的作業の作るイメージだが、これを白米と思ったり、形状からさんまに見えたりするのは実際である。元来作者はイメージで句作するひとではないし、句は(糞)リアリズム句の一貫なのだ。つまり壮絶な飢えの句だ。いまの日本にも、こんなふうに空にさんまを見る人は少なくないだろう。今日の空にも、たくさんのさんまが泳いでいるのだろう。それがいまや全く見えなくなっている私を、私は幸福だと言うべきなのか。言うべきなのだろう。新装版『無禮なる妻』(2009・未来社)所収。(清水哲男)


October 12102009

 金木犀闇にひたりと父在りき

                           柴田千晶

親にとって子供はたしかに存在するが、子供にとっての父親は虚構のような存在なのかもしれない。子供に父親の実在は認識できても、それはほとんど他者の実在に対する認識と同じようである。なぜその人が、自分と同じ場所にいつも一緒にいなければならないのか。いま一つ、実感的な必然性に欠けるのが父親というものであるようだ。そこが母親とは大いに異なるところである。掲句を読んで、ことさらにその感を深くした。たしかに「父在りき」と詠まれてはいるけれど、この父は存命のときさながらに「在る」のではない。具象的なかたちを伴わず、非常に抽象的に存在している。解釈を百歩ゆずっても、せいぜいが半具象的な父親像である。それは闇のなかでは芳香が強いことでのみ存在感を示す金木犀と同様に、父親の「在る」姿は確固たるものからはほど遠く、あたりにただ瀰漫しているといったふうである。だから作者が「父在りき」というときに、父親は明確な像を結ぶのではなく、かなり茫漠とした印象である。つまり、句の父は父親というよりも、むしろ「父性」に近い言葉なのだと思う。同じ句集に「徘徊の父と無月の庭に立つ」があり、きわめて具体的な情景ではあるが、闇の庭でかたわらに立っている父親はまるで実感的な絆のない他者のようではないか。このように写るのは「徘徊」する父だからではなくて、父性というものが属性として遂に徘徊性を避けられないからだろうなと、納得しておくことにした。『赤き毛皮』(2009)所収。(清水哲男)


October 19102009

 草の実のはじけ還らぬ人多し

                           酒井弘司

書きに「神代植物公園」とある。四句のうちの一句。我が家からバスで十五分ほどのところなので、よく出かけて行く。年間パスというものも持っている。秋のこの公園といえば、薔薇で有名だ。広場に絢爛と咲き誇るさまは、とにかく壮観である。しかし、作者は四句ともに薔薇を詠み込んではいない。目がいかなかったはずはないのだけれど、それよりも名もない雑草の実などに惹かれている。作者は私と同年齢だから、この気持ちはよくわかるような気がする。華麗な薔薇よりも草の実。それらがはじけている様子を見るにつけ、人間もしょせんは草の実と同じような存在と感じられてきて、これらの草の実とおなじように土に還っていった友人知己のことが思い出される。そんな人々の数も、もうこの年齢にまでなると決して少なくはない。そこで作者は彼らを懐かしむというよりも、むしろ彼らと同じように自身の還らぬときの来ることに心が動いているようだ。自分もまた、いずれは「多し」のひとりになるのである。この句を読んだときに、私は半世紀も前に「草の実」を詠んでいることを思い出した。「ポケットにナイフ草の実はぜつづく」。この私も、なんと若かったことか。掲句との時間差による心の移ろいを、いやでも思い知らされることになったのだった。『谷風』(2009)所収。(清水哲男)


October 26102009

 ペンダントの透明な赤秋惜しむ

                           伊関葉子

に見しょとて紅鉄漿(べにかね)つきょぞ……。唄の文句じゃないけれど、女性のお洒落は要するに異性を惹きつけるためなんだろう。学生時代、クラスの女性にづけづけと言ったら、たちどころに切り返された。それもある、否定はしない。でも、お洒落の最大の効用は、その時々の気持ちの表現手段になることであり、気分をコントロールできるることだ。つまり、ほとんどは自分のためなのよ。彼女の言外には、年中学生服で通しているカラスみたいなあんたには所詮わからないでしょうけどねと、そんなニュアンスがあった。言った当人はもうすっかり忘れているだろうが、私はいまだにちゃんと覚えている。社会人になってネクタイに凝ったりしたこともあり、そのときにも彼女の言を思い出していた。なかなかの名言だなと思う。回り道になったけれど、掲句のペンダントにしても気分のコントロールから、透明な赤を着けているのだろう。装身具によるお洒落は、必要不可欠というわけではないだけに、余計に気分に左右されるはずである。いろいろの色彩を考えてみたが、物寂しい晩秋には、やはり赤がいちばんしっくりとくるような気がする。それも、澄んだ大気に呼応する透明な赤色。着けていてときどき目の端に入るその色を意識すると、行く秋への思いもいちだんと深まってくるようだ。そして、句自体にも、この赤色が清潔な透明感を与えている。このところ気温もだいぶ低くなってきて、来週には暦の上の冬が控えている。まさに「秋惜しむ」の感。なお、さきほどの唄は「京鹿子娘道成寺」の一節。「みんな主への心中だて」とつづく。意味不明のまま、小学生の頃に覚えた。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


November 02112009

 淋しくて燃ゆるサルビアかも知れず

                           山田弘子

のサルビアが好きだ。とくに、この季節の……。多くの歳時記では夏の季語とされているが、花期は長く、まだ盛んに咲きつづけている。他の植物がうら枯れていくなかで、その朱を極めたような様子には、どういうわけか淋しさを感じてきた。絶頂は既にして没落の兆しを孕んでいるからなのだろうか。長年こんな感じ方は私だけのものかと思っていたら、掲句があった。「かも知れず」とあるからには、作者もまた、自分だけの感性だろうかといぶかっているようにも思える。私にしてみれば、ようやく同志を得た心持ちがしている。サルビアといえば、だいぶ以前に女子大生三人組の「もとまろ」が歌っていた「サルビアの花」がある。失恋の歌だ。♪いつもいつも思ってた サルビアの花を あなたの部屋の中に投げ入れたくて……。私くらいの年齢には、こんなセンチな歌詞はもう甘ったる過ぎるのだけれど、淋しい歌にサルビアを持ってきた感覚はなかなかのものだと思う。ただし、作詞者はサルビア自体には淋しさを感じていない。むしろ元気な花と失恋との取り合わせから、淋しさを演出している。さて、早いもので季節は十一月。間もなく、さすがのサルビアの朱も消えてしまう。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


November 09112009

 小春日の子らの遊びは地より暮れ

                           若林卓宣

の情景は、もうセピア色の世界になってしまった。日暮れ時に限らず、いまどき外で遊ぶ子らの姿はめったに見られない。ましてや「ご飯ですよおっ、いい加減に帰ってらっしゃい」なんて母親の呼び声は、とっくのとうに消滅してしまった。実際に暗くなるまで夢中になって遊んだ子供時代を持たない人には、この句の味はわかるまい。そうだった。「地より暮れて」くるのだった。遊び道具などなかった私の子供のころに流行ったのは「釘倒し」だ。たいていの家には転がっていた五寸釘を持ち出して、まず一人がそれを地面に投げつけて突き立てる。次の順番の子が、それを目がけて釘を打ちつけ、倒せば勝ちという単純な遊びだ。やり方は単純だけれど、なかなかに技術も必要で、物すごく面白い。みんな止められずに、もう一回もう一回と遊んでいるうちにだんだんと暗くなってくる。そしてこの遊びの醍醐味は、日暮れとともにやってくるのである。釘と釘が衝突すると、明るいうちには見えなかった火花の散る様子が見えてくるからだ。動物は火を見ると興奮するそうだが、ヒトの子とて例外ではない。暮れた地に火花を散らしているうちに、誰もがエクスタシーめいた感覚にとらわれる。こうなるともう止められないが、そこに無情な母親の声。一人減り二人減りして、止むを得ずゲームは終了となるのだった。懐かしいなあ、みんな貧しかったが、あの頃が人生の黄金時代だったと今にして思う。昭和二十年代の話である。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


November 16112009

 かたつむり紅葉の中に老いにけり

                           大串 章

見だろうか。実見にせよ想像にせよ、いまの季節に「かたつむり」に着目したセンスの良さ。紅葉との取り合わせが、実に鮮烈だ。俳句に限らず、こうしたセンスを生かせる能力は天性のものと言ってよいだろう。勉強したり努力したりして、獲得できるものではない。ここらへんが、人間の面白さであり味である。紅葉の盛りのなかで、かたつむりがじっとしている。梅雨ごろにはノロマながら這い回っていたのに、いまは死んだように微動だにしていない。かたつむりの生態は知らないけれど、寒さのゆえにじっとしているというよりも、作者は老いたがゆえだと断定する。根拠は無い。無いが、その様子にみずからの老いてゆく姿(このとき作者は五十代後半)を投影して、近未来の自分のありように重ね合わせている。これは頭ででっち上げた詠みではなくて、ごく自然に口をついて出てきたそれである。章句の良さは、情景から思わずも人生訓などを引き出しそうになる寸前で詠みを止めてしまうところだ。最近は、とくにそう感じることが多い。これもまたセンスなり。数多ある紅葉句のうちでも、秀抜な一句である。『天風』(1999)所収。(清水哲男)


November 23112009

 吊革に双手勤労感謝の日

                           長田和江

人の様子ではなく、自分のことを詠んだと見るほうが味わい深い。作者は女性だ。女性が双手(両手)で吊革につかまる姿はあまり見かけない。よほど疲れているのだろう。サービス業なのだろうか。とにかく祝日でも休めない職に就いている。今朝もいつもの時刻に出勤のため、電車に乗っている。いつもとは違って車内はだいぶ空いており、双手で吊革につかまるほどの余裕はある。そこで思わずも自然に双手で吊革をつかんでいる自分に、気がついた。あらためて、疲労している自分を確認した。周囲には行楽地に向かうとおぼしき家族連れなどもいて、ああ休みたいなと思う気持ちが込み上げてくる。そういえば、吊革にすがっている自分の姿は、そんな気持ちを天に向かって祈りを捧げているようではないか。微苦笑している作者の顔が目に浮かぶ。まったくもって同情したくなってくるけれど、しかしこの不景気、この就職難時代のことを思えば、作者はまだまだ幸せなほうである。いま「勤労感謝の日」という言葉が最も身にしみているのは、ただいま失職中の人たちなのではなかろうか。働きたくても働けない。一日も早く、そんな状況が消えてなくなりますように。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


November 30112009

 寄鍋にうるさき女奉行かな

                           湯浅苔巌

に「鍋奉行」と言う。鍋に具を入れる順番から煮え加減や食べ方にいたるまで、まことに細かく指示を出しつづけて「うるさい」。私などは無精だから「どうだっていいじゃん」と大人しくしているが、こういう句を詠む人もまた、鍋にはかなりの自信があるのだろう。しかし上には上がいるというのか、相手が女性ゆえに遠慮しているのか、彼女の指図にいちいちかちんと来ているのだが、何も言えないでいる。流儀が根本的に違うのだ。だからただただ腹立たしく、うるさいのである。と言って、べつに彼女を憎むほどでもないのであって、そのうちに諦めが肝心と悟ってゆく。ちょっとした宴会のちょっとした出来事。俳句でなければ、人はこんなことは書けないし書かない。まこと庶民の文芸である。でも逆に口うるさい鍋奉行がいてくれないと、すぐに鍋の中はぐちゃぐちゃになるし、荒涼としてくる。うるさくても、助かるのである。それこそ逆に、こんな句もある。「寄鍋を仕切るをとこのゐるもよし」(近藤庸美)。こちらは、女性ならではのありがたさを感じている。料理といえば女。それが「をとこ奉行」のおかげで、何もしなくてもよいからだ。今日で十一月もお終い。本格的な鍋料理の季節に入ってゆくが、腕を撫している奉行たちも大勢いることだろう。山田弘子編『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


December 07122009

 残像なお増殖止まず開戦日

                           的野 雄

日12月8日(1941年・日本時間)は大東亜戦争(当時の日本政府による呼び方)の開戦日。「ああ」と感慨を抱くのは、既に物心のついていた七十代半ば以降の人たちだろう。私はまだ三歳だったので、何も覚えてはいない。この日から、日本は、いや世界は、泥沼の道に入った。作者の脳裏に去来する「残像」はどんなものなのだろうか。むろん、一言では尽くせまい。大きく変わった身内の運命。知り合いの人の運命。なによりも口惜しいのは、戦争さえなければ死ななくてもよかった人たちの死である。若く元気だった人たちの顔が、いまでも目に浮かぶ。同時に、当時の暮らしぶりや山川の風景、そしてその後の自身を含めて翻弄されつづけた生活のありようなど。残像はとめどなく明滅し、止むことがない。言っても甲斐なきことなどは承知でも、なおこう詠まずにはいられない作者の気持ちが、私などにはよくわかる。現在沖縄基地問題をめぐって、鳩山政権が苦しがっているようだ。しかし、そんな苦しみは、あの日を生身で体験した人々のそれに比べれば屁みたいなものである。たとえ無責任なマスコミに八方美人的と言われようとも、問題解決を焦ることはない。じっくりと腰をすえて、百年の大計を練るべきである。『円宙』(2009)所収。(清水哲男)


December 14122009

 ライオンが検査でゐない冬日向

                           北大路翼

物園でのそのまんま句。しかも、この作者にしてはいやに古風な詠みぶりにも写る。しかし、よく考えてみると、やはりこの句はすこぶる現代的なのであった。一言で言えば、それは対象への関心の希薄性にある。ライオンが詠まれているけれど、べつに作者はライオンを見物する目的で、ここにいるのではないだろう。なんとなくぶらりと入った動物園なのだ。だから、たぶん「検査のため不在」という張り紙を見ても「ああ、そうか」と思っただけなのであり、それ以上の関心は示していない。そのことよりも、暖かい「冬日向」にいられることのほうが、よほどラッキーと思えている。いまや、世の中はイベントだらけだ。早い話がそもそも家庭でのテレビがイベントの倉庫であるし、一歩表に出れば商店街の大安売りなども同類である。つまり好むと好まざるとに関わらず、現代の生活にイベントはつきものとなってしまった。なかでも動物園などは、昔からイベントの常設会場だ。でも昔は珍しい動物に会えるのを楽しみにドキドキしながら入園したものだが、最近は三歳の幼児でも昔の子ほど興奮しているようには見られない。つまり、国民総イベント慣れの時代となったわけだ。このようにイベントに慣らされた感受性には、そこに何かが欠落していたとしても、すぐにテレビのチャンネルを切り替えるがごとく、欠落そのものを忘れてしまう。と言うか、あきらめてしまう。どんどんチャンネルを切り替えてゆく。少しく大げさに言えば、そうしなければ身が持たないからである。この句は作者が意識しているのかどうかは別にして、そうした極めて現代的な感受性が働いた結果の産物なのであり、ここに切り取られている時空間は、昔の俳人ではとても意識できないそれであることだけは間違いのないところだろう。ちっとも古風ではなく、実は新しいのである。『セレクション俳人・新撰21』(2009)所載。(清水哲男)


December 21122009

 昭和の空に残されている寒鴉

                           木村和也

和も遠くなりにけり。年が明ければ、もう二十二年以上も前の昔の時代である。昨今のジャーナリズムが盛んに回顧しているのもうなずけるが、しかし昭和はずいぶん長かったので、一口に回顧するといっても、その感慨はさまざまであるはずだ。反射的に思い出す時期も、大きく分ければ戦前の昭和もあれば戦後のそれもある。でも、ジャーナリズムが好んで採り上げたがるのが三十年代の昭和であることに、私は不満を抱いてきた。戦禍からたくましく蘇った日本人、いろんな奴がいたけれどみんなが苦労をわかちあい助け合った時代、往時の小学一年生の教科書みたいに「おはなをかざる、みんないいこ」の大合唱……にはうんざりさせられる。「三丁目の夕日」に代表されるノスタルジックな世界は、表層的な回顧の、ほんの一面であるにすぎない。そんな馬鹿なと、私などはそれこそ回顧する。心をじっと沈めてみれば、あの時代も含めて、昭和はロクでもない時代だったと思う。だから私は「夕日」よりも掲句の「寒鴉」に象徴されるあれこれのほうが、口惜しい話ではあるけれど、的を射ていると思われるのだ。二十年以上も経ているというのに、なお昭和の空には孤独な姿の鴉が残されてあると写る作者の目は健全と言うべきだろう。嫌なことは忘れたいと思うのは人情だが、その反動で夕日を情緒的に美化しすぎる目は逆に病的だと言わざるをえない。この句は多くの支持を得られないかもしれないが、私はあくまでも怜悧である作者の感覚を信頼する。この鴉は決して亡霊などではなく、まぎれもなく昭和の私たちや時代の姿を象徴していると読んだ。『新鬼』(2009)所収。(清水哲男)


December 28122009

 老一日ただうろうろと師走街

                           田村松江

い頃から、雑踏を「ただうろうろと」するのが好きだった。雑踏など望むべくもない山奥で育ったせいかもしれない。とくに師走の街の慌ただしい活気のある通りが良い。普段とは違い、人の流れがスムーズではないからだ。あちこちで人にぶつかりそうになっては身を翻し、それぞれに工夫をこらした商店を覗いてまわる。べつに買いたいものがあるわけじゃないが、こんなところにこんな店があったのかなどと、日頃は見過ごしている情景にぶつかると、なんとなく嬉しくなったりもする。他愛のない楽しみだが、それが腰を悪くした今年は、そうぶらぶらともできないのが悲しい。ぶらぶらと歩いているようでも、内心では転ばないようにと緊張しているのが老人である。のろのろ歩くのも、ひとつにはそんな心配があるからだ。作者は年用意のために街に出かけたのだろうが、帰ってきてみれば、一日中ただうろうろとしただけだったという思いが強く残った。せっかく出かけたというのに、用事の半分くらいしかこなせなかったのかもしれない。とにかく肝心の用事をすませるつもりが、若い時のようには運ばなかったのだ。なんということもない句ではあるけれど、私のような年代になると、とてもよくわかるし、つくづくと身にしみてくる。さて、本日もまた「うろうろ」してきますかな。『冬麗』(2009)所収。(清水哲男)




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