July 072009
雷去るや鍋に膨らむ浸し豆
鶴川和子
雨がじゃんじゃん降ろうが、太陽がじりじり照りつけようが、腹の底を揺さぶるような雷ほどおそろしくはない。大昔から変わることなく、人間はこの気象現象に身をすくませてきたのだろう。そろそろと遠ざかる雷を見送り、ようやく人心地がつく。「人心地」の本意である「生きたここち」という感じがたいへんぴったりする瞬間だ。一方、台所では固い豆たちが鍋のなかでしっとりとやわらかに膨らんでいる真っ最中なのだ。雷と豆に因果関係をつけるとしたら、節分で鬼をはらうのは炒った大豆を使う、などと思いついたが、雷神がモデルの雷さまと、豆撒きの鬼では出自が違うし、むろん関係を強いるところではない。むしろふたつの関係が淡いほど、遠ざかる雷の余韻が心に残り、目の前の日常そのものである台所の情景がくっきりと際立つのだから俳句という詩型は不思議だ。あらかたの水をすっかり吸い込み、膨らみ続ける豆。ふと、今夜の天の川の具合が気になってみたりして、思いはまた空へと戻る。これも、わずかながらどこかでつながっている雷と豆の効用なのかもしれない。『紫木蓮』(2009)所収。(土肥あき子)
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