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July 0772009

 雷去るや鍋に膨らむ浸し豆

                           鶴川和子

がじゃんじゃん降ろうが、太陽がじりじり照りつけようが、腹の底を揺さぶるような雷ほどおそろしくはない。大昔から変わることなく、人間はこの気象現象に身をすくませてきたのだろう。そろそろと遠ざかる雷を見送り、ようやく人心地がつく。「人心地」の本意である「生きたここち」という感じがたいへんぴったりする瞬間だ。一方、台所では固い豆たちが鍋のなかでしっとりとやわらかに膨らんでいる真っ最中なのだ。雷と豆に因果関係をつけるとしたら、節分で鬼をはらうのは炒った大豆を使う、などと思いついたが、雷神がモデルの雷さまと、豆撒きの鬼では出自が違うし、むろん関係を強いるところではない。むしろふたつの関係が淡いほど、遠ざかる雷の余韻が心に残り、目の前の日常そのものである台所の情景がくっきりと際立つのだから俳句という詩型は不思議だ。あらかたの水をすっかり吸い込み、膨らみ続ける豆。ふと、今夜の天の川の具合が気になってみたりして、思いはまた空へと戻る。これも、わずかながらどこかでつながっている雷と豆の効用なのかもしれない。『紫木蓮』(2009)所収。(土肥あき子)


July 1472009

 黒猫は黒のかたまり麦の秋

                           坪内稔典

の秋とは、秋の麦のことではなく、ものの実る秋のように麦が黄金色になる夏の時期を呼ぶのだから、俳句の言葉はややこしい。麦の収穫は梅雨入り前に行わなければならないこともあり、関東地域では6月上旬あたりだが、北海道ではちょうど今頃が、地平線まで続く一面の麦畑が黄金色となって、軽やかな音を立てていることだろう。掲句の「黒のかたまり」とは、まさしく漆黒の猫そのものの形容であろう。猫の約束でもあるような、しなやかな肢体のなかでも、もっとも流麗な黒ずくめの猫に、麦の秋を取り合せることで、唯一の色彩である金色の瞳を思わせている。また、同句集には他にも〈ふきげんというかたまりの冬の犀〉〈カバというかたまりがおり十二月〉〈七月の水のかたまりだろうカバ〉などが登場する。かたまりとは、ものごとの集合体をあらわすと同時に、「欲望のかたまり」や「誠実のかたまり」など、性質の極端な状態にも使用される。かたまりこそ、何かであることの存在の証明なのだ。かたまり句の一群は「そして、お前は何のかたまりなのか」と、静かに問われているようにも思える。『水のかたまり』(2009)所収。(土肥あき子)


July 2172009

 蝉生れ出て七曜のまたたく間

                           伊藤伊那男

曜(しちよう)とは太陽と月、火星、水星、木星、金星、土星をさし、これらを日曜から土曜までの曜日名とした7日間をいう。一ヵ月や一年というくくりがない、7種類の星の繰り返しが全てである七曜は、一週間を意味しながら、太陽系の惑星が連なる果てしない空間も思わせる。七日間といわれる蝉の一生は、もう出会うことのない月曜日、二度とない火曜日、と思うだに切ないが、それが運命というものだろう。何年か前、数日降り通しの雨がようやく上がった深夜の蝉の声に、ぎょっとしたことがある。命の限界を前に、切羽詰まったもの苦しいまでの鳴き声に、単なる憐憫とは異なる、どちらかというと恐怖に近い感情を抱いた。日本人の平均寿命の80年も、巨大な鍾乳洞でいえばわずか1cmにも満たない成長の時間である。それぞれの生の長さは、はたしてどれも一瞬なのだ。ままならぬ「またたく間」を笑ったり泣いたり、じっと辛抱したりしながら、懸命に生きていく。〈ひきがへる跳びて揃はぬ後ろ足〉〈くらければくらきへ鼠花火かな〉『知命なほ』(2009)所収。(土肥あき子)


July 2872009

 噴水にもたるるところなかりけり

                           中岡毅雄

近では各地で最高気温を更新するたび、噴水で遊ぶ子どもの映像が恒例になっているようだ。夏空へ広げられた清涼感あふれる噴水は、空気や地面を冷やすことで周囲の気温を下げたり、騒音を軽減する実用的な役割りのほか、水辺に憩うという心理的な安らぎを人々に与えるという。きらきらと水の粒を散らす噴水の柱は、どんなに太くあっても、当然壁のようにもたれることはできないのだが、掲句の断定にはおかしみより不安を感じさせる。しなやかで強靭に見えていた噴水が一転して、放り出された水の心もとなさをあらわにするのだ。人工的に作られた装置によって、身をまかせている水の群れが、健気な曲芸師にも見えてくる。現在、日本を含め世界中で、このひたむきな水を思うままに操って、噴水はさまざまなかたちに演出される。ネットサーフィンしているなかで、贅を尽くしたドバイの踊る噴水(3分強/サウンド有)に息をのんだ。自在に踊る水にもっとも似ているものは、もっとも遠いはずの炎であった。火もまた、もたれることができないもののひとつである。〈水馬いのちみづみづしくあれよ〉〈生きてふるへるはなびらのことごとく〉『啓示』(2009)所収。(土肥あき子)


August 0482009

 蟻を見るみるみる小さくなる大人

                           小枝恵美子

人がしゃがめば子どもの目線になる。それだけで、ぐっと地面が近づいて見えるものだ。蟻を見つめ続けるうちに、みるみる身体が小さくなっていくような掲句は、まるでSF映画のようだが、見方を変えれば、蟻がどんどん大きく見えてくるということでもある。最初、黒い粒の行列にしか見えない姿が、凝視しているうちに、一匹ずつの顎の先に挟んでいるものまではっきりしてくるのだから、だんだんどちらが大きいかなどということがすっかり頭から消えてしまう。画家の熊谷守一は、自宅の庭で熱心に蟻を観察し「地面に頬杖つきながら、蟻の歩き方を幾年もみていてわかったんですが、蟻は左の二番目の足から歩き出すんです」と書く。東京都豊島区にある美術館となっている旧宅の壁には巨大な蟻が描かれている。彼こそ「みるみる小さくなる大人」だったに違いない。『ベイサイド』(2009)所収。(土肥あき子)


August 1182009

 三人の棲む家晩夏の灯を三つ

                           酒井弘司

人家族が一軒の家のなかで別々の灯を持つことは、個別の夜を過ごしているということだ。父はリビングでナイター、母は風呂場、娘または息子は部屋でパソコン、というところだろうか。掲句は夏の盛りを過ぎた季節のなかで、家族のありようも描いている。いつか清水哲男さんが「家族にも旬のときがある」と書かれたことがあったが、夫婦から子どもが誕生し、にぎやかな笑い声や厳しい叱咤などに囲まれながら親も子も成長していく毎日が旬と呼べる時代なのだろう。いわば、大きなひとつの明かりのなかに集う時代を家族の頂点とするならば、かの家族は旬を過ぎようとするひとコマといえる。分裂していく小さな部屋の明かりは、そこに生活する人間そのものが灯っているようにも見えてくる。それぞれの影を胸に畳みながら、大人同士が生きていくのも、また家族の風景なのである。句集名となった「谷風(こくふう)」は、『詩経国風』から。東から吹く春風、万物を生長させる風の意であるという。『谷風』(2009)所収。(土肥あき子)


August 1882009

 台風の目の中にあるプリンかな

                           蔵前幸子

象情報などで日本列島を鳥瞰する映像を見ると、なるほど台風の目とはよく言ったもの、という具合のつぶらな中心がある。災害であるから、つぶらなどという言葉は適切ではないが、「大型で強い」「超大型で非常に強い」などの形容にも、台風に対してまるで命あるもののように思わせる力がある。台風の踏み荒らす進路がこういくか、はたまたああいくかと、地図上の経路線は入り組み、しかし渦巻きは、いかに気象衛星を飛ばそうが、科学が発達しようが百年前とまるで変わらない気ままさで動き回る。予想図があるために天災でありながら、地震や噴火などの畏怖とは若干異なり、大きくて荒っぽい神さまのお通りのように思えるのかもしれない。現代では雨戸を打ち付けたり、蝋燭の準備をしたりすることもなくなったが、あの「いよいよ来る」というハラハラと高ぶる気持ちは忘れがたい。台風の目の中は、もうしばらくしたら必ずまた来訪される「ひとつ目」の神さまのご機嫌を予感しながらの、束の間の平安である。ふるふると震えるプリンのてっぺんに乗るカラメルの茶色が、怖れず天を睨み返す目玉のように見えてくる。『さっちゃん』(2009)所収。(土肥あき子)


August 2582009

 抱きしめて浮輪の空気抜きにけり

                           山下由理子

休みもそろそろ数えるほどになってきた。小学生時代は、夏休みの間中、子ども部屋の隅にふくらんだままの浮き輪が転がっていたように覚えている。あるいは、使用する都度ふくらまし、遊び終わったら空気を抜き出し入れする几帳面な家庭もあったかと思うが、プールや川に行こうと呼ばれれば、すぐに浮き輪を腰に装着して駆けて行ったのだから、わが家はかなり野放図派であったようだ。ひと夏、息を足しながら使う浮き輪の空気を完全に抜くときは、夏休みの宿題に迫られたこの時期。今年もそろそろ座敷の隅で夏休みを越した浮輪が目障りになってくる頃だろう。ひとたび栓を解き、抱きしめればひと夏の空気が勢いよく噴出し、次第にくたりとなった浮き輪をさらに二つ折りにしたり四つ折りにしたりと、楽しい思い出を畳み込むようにしてぺちゃんこにしていく。安定しない陽気が続き、今年はあまり活躍の場のなかった浮き輪かもしれないが、来年の楽しい夏までしばらくのお別れである。やけに広々と感じられる子ども部屋に、秋の気配が入り込む。『野の花』(2007)所収。(土肥あき子)


September 0192009

 野の花を野にあるやうに挿しにけり

                           杉阪大和

月の声を聞くと、肌に触れる空気にはっきりと秋の存在を感じるようになる。掲句の季題「野の花」は、歳時記「秋草」の傍題に置かれる。同じようではあるが「草の花」よりずっと控えめな、花ともいえぬ花であるような印象を受ける。茶の世界では、千利休の残した七則に「花は野にあるように」と心得があるが、掲句はその教えに沿って茶室に茶花を飾ったということではなく、おそらく野にある花を摘んできてしまった、わずかな後悔がさせた行為であろう。都会のなかで、あらためて手のなかに見る花の姿に、はっとしたのではないか。手折った花へのせめてもの償いとして、野に咲いていた可憐なおもむきを残すように挿しおいた、という作者の純情が静かな寂しさとともに立ち表れてくる。そして、利休の考えた茶室に再現させる自然の景のなかにも、作者が感じた申し訳なさという思いが込められてこそ、「侘び」の心が生まれるのかもしれない、と今さらながら気づいたのだった。『遠蛙』(2009)所収。(土肥あき子)


September 0892009

 引掻いて洗ふ船底秋没日

                           山西雅子

日「かんかん虫」という言葉を初めて知った。ドック入りした船の腹に付いた錆や貝などををハンマーを使って落す港湾労働者のことを指すのだそうだ。「虫」という呼称に、作業の過酷さや貧しさが表れている。しかし、掲句の船はそれほど大きなものではなく、ひとりで世話ができるほどの丈であるように思う。中勘助の『鳥の物語』に若い海女と都人の悲恋を描く「鵜の話」がある。海女が海底の竜神に捕われ、ある日、なにかの拍子に肩ごしに背中へ手をやると指先がなにかに触れる。「それはまだ柔らかくはあるがまさしく出来かけの二、三枚の鱗だった」という記述は、いつ読んでもぞくっと身の毛のよだつ箇所である。異類の国に住み異類の食を取るようになるうちに、だんだん海のものへとなっていく。掲句の「引掻く」が、まるで船に付いた出来たての鱗のようにも思え、海に帰りたがる船を、陸の世界へと引き戻す作業に見えてくる。〈夜濯のもの吊る下の眠りかな〉〈反らしたる指を離れぬばつたかな〉『沙鴎』(2009)所収。(土肥あき子)


September 1592009

 案外と野分の空を鳥飛べり

                           加藤かな文

五の「案外と」に目を見張った。そう。どんなに激しい風のなかでも、そのあたりに身をひそめればよいようなものを、思いのほか平気で鳥は飛んでいる。どちらかというと、強風になぶられることを楽しんでいるようにさえ見える。上野の森で、羽の目指す方向とはまるきり別の方角へ流されているカラスを、飽きずに眺めていたことがある。カラスは鳴きながら飛んでいたが、なんとなくそれは「助けて〜」より、「見て見て〜」という気楽さがあった。掲句の「案外と」の発見で、鳥たちも家路を急いでいるのでは…、などという人間的な常識を離れ、わりと楽しんでいるのでは、という屈託ない見方ができたのではないか。翼を持つものだけの、秘密の楽しみは、まだまだほかにもあるように思う。〈わが影は人のかたちよ水澄んで〉〈とまりたきもの見つからず赤とんぼ〉『家』(2009)所収。(土肥あき子)


September 2292009

 犬の仔の直ぐにおとなや草の花

                           広渡敬雄

に入りのひとコマ漫画に、愛犬の写真を毎年撮ってずらりと飾ってある居間を描いたものがある。一枚目の子犬の他はどれも全部、全く同じ表情の成犬が愛想なく並んでいて、見ている方をクスリと笑わせる。子犬や子猫の時代の可愛らしさは、飼い主の記憶のなかでは、そのいたずらな行為とともに永遠に記憶に刻まれるが、実際の時間としてはまたたく間に過ぎてしまう。拾ってきた当初、ティッシュボックスのなかで眠れるほどの大きさだったわが家の三毛猫も、一歳を迎える前に一夜にして大人びた顔の恋猫になった。そこには、本人(猫だが)も当惑しているような居心地の悪さも見えはしたが、誰に教わることなく、恋猫特有の鳴き声を朗々と披露したのだった。しかして動物たちの成長の勢いは、思春期を思い悩むこともなく、さっさと大人になり、さっさと飼い主の年齢を追い抜いていく。掲句の切れ字「や」により引き出されるわずかな詠嘆が、この愛らしい生きものが人間よりずっと短い寿命を持つことを言外に匂わせている。『ライカ』(2009)所収。(土肥あき子)


September 2992009

 密密と隙間締め出しゆく葡萄

                           中原道夫

一度通う職場への途中に葡萄棚を持つお宅がある。特別収穫を気にする様子もなく、袋掛けもされない幾房かの固くしまった青い葡萄を毎年楽しみに眺めている。可愛らしいフルーツにはさくらんぼをはじめ、苺や桃など次々名を挙げることができるが、美しいフルーツとなるとなにをおいても葡萄だと思う。たわわに下がる果実、果実を守る手のひらを思わせる大きな葉、日に踊る螺旋の蔓の先など、どれをとっても際立って美しく、古来より豊かさの象徴とされ、神殿の彫刻にも多く刻まれているそれは、時代を越え、愛され続けてきたモチーフである。なにより美酒になることも大きな魅力で、酒神ディオニソス(バッカス)が描かれるとき、かならずその美しい果実が寄り添っている。掲句の下すぼまりの語感の固い感触に、育ちゆく葡萄の若々しい姿と、締め出した隙間に充実する果実に内包される豊かな果汁が想像される。サニールージュ、ヴィーナス、ユニコーン、涼玉、マニキュアフィンガー、これらはどれも葡萄の品種。それぞれに美を連想させる名称である。『緑廊』(2009)所収。(土肥あき子)


October 06102009

 電球のやうにぷつくら茶の蕾

                           本井 英

う40年近い過去になるが、生まれ育った静岡市内では、通学路の右に左に茶畑があった。社会科実習では茶摘みを体験した覚えもあるが、茶畑といえば身をかがめて畝から畝へ移動する下校のかくれんぼを思い出す。ランドセルが茶の木から飛び出さないように、腹に抱えるのが鉄則だった。柔らかな葉に縁取られたときも、葉の刈り込まれた坊主頭も、ぼさぼさの冬の時代も全部知っている兄弟のような木に、花が咲くことを知ったのはいつ頃だろうか。身をかがめた下枝のあたりに、目立たない白い花を見つけたときには、そっと触れずにはいられない嬉しさを感じたものだ。掲句の見立ては、蕾の愛らしいかたちとともに、ぽっと灯るような静かなたたずまいを思わせる。茶の花は桜のような満開にならないと思っていたが、茶畑の茶の木は葉の育成のため、あまり花を咲かせないように過剰に栄養を与えているという。吉野弘の「茶の花おぼえがき」という散文詩に、「長い間、肥料を吸収しつづけた茶の木が老化して、もはや吸収力をも失ってしまったとき、一斉に花を咲き揃えます。花とは何かを、これ以上鮮烈に語ることができるでしょうか」という忘れられない文章がある。長い長い詩のほんの一部分である。『八月』(2009)所収。(土肥あき子)


October 13102009

 月入るや人を探しに行くやうに

                           森賀まり

陽がはっきりした明るさを伴って日没するのと違い、月の退場は実にあいまいである。日の出とともに月は地平線に消えているものとばかり思っていた時期もあり、昼間青空に半分身を透かせるようにして浮かぶ白い月を理解するまで相当頭を悩ませた。月の出時間というものをあらためて見てみると毎日50分ずつ遅れており、またまったく出ない日もあったりで、律儀な日の出と比べずいぶん気ままにも思えてくる。実際、太陽は月の400倍も大きく、400倍も遠いところにあるのだから、同じ天体にあるものとしてひとまとめに見てしまうこと自体乱暴な話しなのだが、どうしても昼は太陽、夜は月、というような存在で比較してしまう。太陽が次の出番を待つ国へと堅実に働きに行っている留守を、月が勤めているわけではない。月はもっと自由に地球と関係を持っているのだ。本日の月の入りは午後2時。輝きを控えた月が、そっと誰かを追うように地平線に消えていく。〈道の先夜になりゆく落葉かな〉〈思うより深くて春のにはたづみ〉『瞬く』(2009)所収。(土肥あき子)


October 20102009

 芙蓉閉づをんなにはすぐ五時が来て

                           坂間晴子

蓉の季節の午後五時は、ちょうど日の入り間近の時間である。秋の晴天は日が沈むとみるみる暗くなる。またたく間の日の暮れかたで、ようやく夜がそこまで近づいていることに気づく。五時とは不思議な時間である。掲句の、女に近寄る五時とは、生活時間だけではなく、ふと気づくとたちまち暮れてしまう人生の時間も指しているが、芙蓉の花がむやみな孤独から救っている。朝咲いて夕方には萎んでしまう芙蓉が悲しみを伴わないのは、数カ月に渡って次々と花を咲かせるからだろう。すぐ五時が来て、夜が訪れるが、また朝もめぐることを予感させている。年齢を3で割ると人生の時間が表れるという。24歳の8時は働き始め、30歳は10時、45歳は15時でひと休み。黄昏の17時は51歳となる。所収の句集は、昭和三年生まれの作者が50歳になる前に編まれたもの。四十代の女性の作品として紹介していただいた句集である。若くもなく、かといって老いにはまだ間のある四十代を持て余しているようなわたしに、こつんと喝を入れる一冊となった。〈ヘアピンもて金亀子の死を確かむる〉〈背を割りて服脱ぎおとす稲光〉〈水澄むやきのふのあそびけふ古ぶ〉『和音』(1976)所収。(土肥あき子)


October 27102009

 末枯や子供心に日が暮れて

                           岸本尚毅

枯(うらがれ)とは、枝先、葉先から枯れはじめ、近寄る枯野を予感させる晩秋の景色である。盛りを過ぎた草木のあわれを訴える季題ではあるが、そこには日差しの明るみも潜んでいる。掲句を、子供心にも日暮れどきには感傷じみた思いになる、と読んだが、子供が意識する日暮れには「さみしさ」よりも、はっとする「焦り」の方が頻繁だったように思う。遊びに夢中で門限を過ぎていたとき、宿題をすっかり忘れていたとき、子供時代は他愛ないことで年中うろたえていた。子供にとっての一大事は、大人になった今思えば「そんなことで」と首をかしげるようなことばかりだが、そのたびにたしかに叱られてもいたのだから、大人も「そんなことで」叱ってばかりいたのである。そう思うと、掲句は単に日没への郷愁というより、「あーあ、どうしよう」という途方に暮れた感情が入り乱れているように思えてきた。末枯によって光と影が交錯し、全体に哀愁を含ませている。子供心の複雑さは、カッコわるいと思っていること(カッコいいと思っていることも)が大人と大いに違っている点にある。〈望なりし月すぐ欠けて秋深し〉〈ぽつかりと日当るところ水澄める〉『感謝』(2009)所収。(土肥あき子)


November 03112009

 手が翼ならば頭は秋の風

                           守屋明俊

日「文化の日」は、一年に数日ある晴れの特異日。予報では降水率10%だが、最高気温が東京で15度とかなり低い。11月に入ると、空にはしっとりした秋と硬質な冬のストライプがあって、冬の層がみるみる厚くなっていくように思える。くっきりと筋目のついているような秋の空気を、両手で撹拌しながら深呼吸してみれば、なんとなく宙に浮くような気分が味わえる。空を飛ぶ鳥たちには、翼を上下させるはばたき飛行のほか、翼を広げたまま宙を滑るように飛ぶ滑空など、さまざまな飛び方があるという。しかし、どれも頭は矢印の先のように進行方向を指している。秋の風に小さな頭をもぐりこませるようにして、それぞれの目的地を目指しているのだと頭上を仰げば、飛び交う鳥たちの残した軌跡のような雲が青空に描かれていた。ところで、掲句によって合点がいったことがある。それは、天使の絵には肩甲骨のあたりから大きな翼が生えており、合唱コンクール定番の「翼をください」の歌詞でも背中に鳥の翼が欲しいと歌われるが、掲句もいうように、翼は人間の腕にかわるものであるはずだ。想像上の姿とはいえ、腕も翼も持つというのは少し欲張りすぎやしないだろうか。人魚を描くとき、足のほかに尾を付けることがないのに、不思議なことである。〈母校とは空蝉の木が鳴くところ〉〈稲妻や笑ひの絶えぬ家ながら〉『日暮れ鳥』(2009)所収。(土肥あき子)


November 10112009

 焼き上がる鯛焼きのみなこちら向き

                           小川春休

前の蕎麦屋はたい焼きも販売するが、夏の間はずっと休みである。そしてある日「たい焼き始めました」の看板が出ると、風がぐっと冷たくなったことに気づく。久しぶりに再会するたい焼きは鉄板の上でほかほかと休んでいた。鉄板には、ずらりといっぺんに焼けるタイプと、一尾ずつ焼くタイプがあり、たい焼き通は前者を養殖もの、後者を天然ものと呼び分けているらしい。一尾ずつの焼き型は、くるくるとひっくり返す把手側が口先となっており、掲句の通り、焼き手に向かって焼き上がる格好となる。とはいえ、客の視線で、店先のウインドウに全員口先を並べているという姿を想像するのも、今まさにこちら側に飛び出しそうな勢いがあってなんとも楽しい。ところで、たい焼きはどこから食べるか。このたびわたしはこちら向きにしたたい焼きをまじまじと見つめ、とってもセクシーなくちびるに気づき、思わずぱくっと頭から食べた。そののちたい焼きの心理テストなるものを見つけた。頭派か尻尾派の二者択一と決め込んでいたが、背びれや腹びれから食べる人もいるそうで、さらには半分に割って尻尾から、などと、きわめて少数派の意見まで網羅され、あまりにも無責任な解説ながら大いに笑ってしまった。頭派は行動力はあるがやり方が雑…。おそらくいつも頭から食べているのだと確信した。『銀の泡』(2009)所収。(土肥あき子)


November 17112009

 ここよりは獣道とや帰り花

                           稲畑廣太郎

り花は、小春日和のあたたかさに、春咲く花がほころびることをいう。「狂い咲き」という表現もあるが、これを「帰ってきた花」と見るのは、俳句特有の趣きだろう。先日奥多摩の切り通しを歩いたときに、車道とはずいぶん違うルートをたどることに気づいた。尾根伝いに切り開かれた道は、どこも身幅ほどで険しく、人間が足だけを使って往来していた時代には、獣たちも共用していたと思わせる小暗さと荒々しさがあった。そして山道は車道で唐突に分断され、道路には「動物とびだし注意」の一方的な警告がやけに目についた。掲句では、この先の小径は獣道なのだろうとつぶやいた言葉に、ほつと咲く季節はずれの花が、人と獣の結界をより鮮やかに、心優しくイメージさせる。思いがけない花の姿は、冬の足音をあらためて感じさせ、獣道を通う生きものたちの息づかいがこの奥にあることを予感させる。そしてまた獣の方も、この花を目印に人出没注意、と心得ているようにも思えてくるのだ。同句集には〈小六月猫に欠伸をうつされし〉もあり、こちらは思いきり人間界にくつろぐ獣の姿。これもまた小春日が似合うもののひとつである。『八分の六』(2009)所収。(土肥あき子)


November 24112009

 地下鉄に息つぎありぬ冬銀河

                           小嶋洋子

下鉄というものは新しいものほど深いという。一番最近開通した近所を走る「副都心線雑司が谷駅」など、地上から約35mとあり、その深さをビルに換算すると…。想像するだに息苦しくなる。ここまで深いと、始発駅から終点まで地上に出ることなく黙々と地下を行き来するのみだが、古株の「丸ノ内線」になると時折地上駅がある。ことに東京ドームを横目にする後楽園駅のあたりは、どこか遊園地の続きめいた気持ちにさせる区間だ。おそらく電車も地下から地上へ視界が開ける瞬間に息つぎをして、また地下へと潜っているのではないか、という掲句の気分もよく分かる。東京の地下鉄の深さを比較するのにたいへん便利な東京地下鉄深度図を見つけた。まだ副都心線が網羅されていないのが惜しいが、前述の「雑司が谷駅」付近はほとんど「永田町駅」クラスの深海ならぬ深都市層を走っていることとなる。眺めているうちに、息つぎを知らない不憫な副都心線の一台一台をつまみあげて、冬の夜空を走らせてあげたい気持ちになってきた。〈跳箱の布の手ざはり冬旱〉〈地球史の先端にゐる寒さかな〉『泡の音色』(2009)所収。(土肥あき子)


December 01122009

 やくそくの数だけ落ちる冬の星

                           塩野谷仁

空が漆黒に深まり、月や星に輝きを増してくると、冬も本番である。先月のしし座流星群は、月明かりの影響がない最高の条件で見ることができたという。天体観測に特別な興味がなくても、今夜、どこかでたくさんの星が流れているのだろうと思うのは、なんとなく気持ちを波立たせる。それは、願いごとを三回繰り返せば叶うおまじないや、マッチ売りの少女の「星が落ちるたびに誰かが神さまに召される」という場面を思い出させ、流れ星に対して誰もがどこかで持っている感情に触れることで、掲句の「約束」が響いてくる。約束とは誰かと誰かの間の個人的な決めごとから、運命やさだめというめぐりあわせまでも含む言葉だ。平仮名で書かれた「やくそく」には、ゆっくり噛んで含める優しさと、反面どうにもあらがえないかたくなさを併せ持つ。それは、流れ星が持つ美しいだけではない予兆を引き連れ、心に染み込んでいく。鋭すぎる冬の星が、ことのほか切なく感じられる夜である。〈一人遊びの男あつまる冬の家〉〈着膨れて水の地球を脱けられず〉『全景』(2009)所収。(土肥あき子)


December 08122009

 生年を西暦でいふちやんちやんこ

                           上原恒子

裁が良かろうと悪かろうと、一度身につけたらなかなか手放せないのがちゃんちゃんこ。最新のヒートテックインナーも、あったかフリースもよいけれど、背中からじんわりあためてくれる中綿の感触は、なにものにも代え難い。掲句の「生年を西暦」に、昭和と西暦の関係は25を足したり引いたり、などと考えながら巻末を見れば作者は1924年生まれ、和暦で大正13年生まれである。作品の若々しさから、もっとずっと若い方を想像していたが、たしかに〈子が産んで子が子を産んで月の海〉などからは、子が生む子がまた生む子という長い時間が描かれている。それにしても、便利ではあるが、なにもかも西暦にしてしまうことには、違和感も抵抗もささやかながらあるものだ。掲句の西暦で言う理由には、「どうせ年齢を計算するんだったら、分かりやすいほうで…」なのか、または「大正って言うのはちょっと…」なのかは分からないが、わずかな逡巡が胸に生まれたため「西暦で言った」ことが作品になったのだろう。そして、西暦を使いこなすことによって、下五のちゃんちゃんこが年寄りめいて見えない。ちゃんちゃんこはベスト型の袖のないものをいうが、ここには「ものごとを手際よく(ちゃんちゃんと)行うことができることから」という意味があるという。あくまでも機能的にアクティブなファッションなのだ。ところで、西暦は下2桁のみ答えることも多く、たとえば1963年生れを単に63年と省略したときに、昭和63年もあるのだから分かりにくい、と言われたことを、ふと思い出した。お若く見える皆さま、お気をつけくださいませ。〈睡蓮は水のリボンでありにけり〉〈げんまんは小指の仕事さくら咲く〉『水のリボン』(2009)所収。(土肥あき子)


December 15122009

 燃やすもの無くなつて来し焚火かな

                           森加名恵

う都会では楽しむことも叶わなくなった焚火だが、わたしの幼い頃は庭で不要品を燃やすことも年末行事のひとつだった。子供はおねしょをするからと、じっと焚火を見つめているだけだったが、青々と澄む冬空へ溶けていくような煙や、思い思いの方向に舞う火の粉など、かつての体験は感触や匂いを伴ってよみがえってくる。掲句もおそらく不要品や落葉などを燃やすための焚火だったのだろうが、そろそろおしまいというところで、なんとなく物足りない気持ちが頭をもたげているのだろう。本来なら掃除といえば、完了というのは喜ばしい限りなのだが、ここには火が消えてしまうというさみしさが生まれている。獣たちが怖れる炎を、いつしか利用するようになり、人間は文明を持ち得たのだという。焚火という火そのものの形を目にしたことで、何千本もの手から手へ伝えられてきた人間と火の関係を作者は見つめ、名残惜しんでいるのだろう。〈かなかなと我が名呼びつつ暮れにけり〉〈ふる里は母居るところ日向ぼこ〉『家族』(2009)所収。(土肥あき子)


December 22122009

 山中に沈む鐘の音師走空

                           井田良江

ろそろ年末もはっきり来週に迫り、いよいよやらねばならぬことの数々に気持ちばかりが焦っている。そんな時でも梵鐘の腹の底にこたえるような低音から、長く尾を引く余韻に包まれると、常にない荘厳な気持ちになるのだから不思議だ。良い鐘とは「一里鳴って、二里響き、三里渡る」のだという。実際どこまで聞こえるかは、都会と山里ではもちろん違うだろうが、どこであっても鐘の音色はブーメランのような形をした物体がゆるいカーブを描いて、そして掲句の通り、向こうの山の彼方へ沈み込むような消え方をする。三浦哲郎の『ユタとふしぎな仲間たち』に出てくる座敷わらしたちの「乗り合いバス」は、鐘の音の輪っかに飛び乗ることだった。小説にはコバルト色の薄べったい虹のようなものとあり、たしかに鐘の音の軌跡は空よりひと色濃い青色の帯のようだ、と合点したものだ。どこからか響く鐘の音のなかで目を凝らせば、コバルト色のブーメランに乗った座敷わらしたちが、せわしない師走の町を見下ろしているかもしれない。〈冬麗や卍と抜けるビルの谷〉〈ひかるものなべてひからせ年惜しむ〉『書屋の灯』(2009)所収。(土肥あき子)


December 29122009

 熱燗や無頼の記憶うすれたる

                           大竹多可志

事納めもとともに、忘年会続きのハードな日々も落ち着き、29日は年末とはいえ、ぎりぎりの普通の日。押し詰まる今年と、迫り来る来年に挟まれた不思議な一日である。ぽかんと空いたひとりの夜に、熱燗の盃を手にすれば、湧きあがるように昔のことなども甦ってくるものだろう。作者は昭和23年生まれ。一般に「団塊の世代」と呼ばれるこの世代といえば「戦後復興経済とともに成長し、大学紛争で大暴れ」といったステレオタイプが強調されることもあり、掲句の「無頼の記憶」もまた、すごぶる武勇伝が潜んでいそうだが、その向こう見ずな時代を熱く語る頃を過ぎたのだという。しかし「うすれた」と「忘れた」とは大きく違う。忘れたくない気持ちが「うすれた」ことを悲しませているのだ。分別を身につけた現在のおのれにわずかに違和を感じつつ、まぎれもなく自分そのものであった無頼時代の無茶のあれこれが、他人事のように浮かんでは消えていく冬の夜である。〈冬の午後会話つまれば眼鏡拭く〉〈団塊の世代はいつも冬帽子〉『水母の骨』(2009)所収。(土肥あき子)




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