本もなくラジオもなく、釣る気もない魚釣りに行ってた退屈な夏休み。(哲




2009ソスN7ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2072009

 兵泳ぎ永久に祖国は波の先

                           池田澄子

索の便宜上、この句は夏の部「泳ぎ」に入れておくが、本質的には無季の句だ。「兵」が「泳ぐ」のは遊泳でもなければ鍛練などのためでもないからである。難破によるものか、あるいは撃沈されたのか。いずれにしてもこの兵(等)は母艦を離れることを余儀なくされ、荒波に翻弄されるように泳いでいる。必死に泳ぐ方向は、実際には不明なのだとしても、彼の頭の中では「祖国」に向いている。そして、その目指す祖国は絶望的に遠い。到達不能の彼方にある。そのようにして、かつての大戦では多くの兵が死んでいった。その無念極まる死を前にした彼らの絶望感を、「永久に祖国は波の先」と詠む作者の心情はあまりに哀しいが、しかしこれが現実だった。「祖国」とは、その地を遠く離れてはじめて実質化具体化する観念だろう。ましてや絶望の淵にいる人間にとっては、祖国は観念などではあり得ず、まぎれもない実体に転化するだろう。寺山修司の有名な歌「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の祖国には、このような実質感ははじめから存在しない。このときに寺山修司はあくまでもロマンチックであり、池田澄子はリアリスティックである。今年もまた敗戦忌がめぐってくる。そしていまだに、かつての兵(等)は波の先の彼方に祖国を実感し、泳ぎつづけている。「俳句」(2009年7月号)所載。(清水哲男)


July 1972009

 お互いにそれは言わずにかき氷

                           川阪京子

週に引き続いて子供の句です。この句は作者が高校2年生のときに詠まれたもの。ことさら意味を解説するまでもなく、こんなこともあるなと、だれしも思いつくことのできる、平明な句です。友人との喧嘩のあとでしょうか。理解のすれ違いが原因のようです。語り合えば双方の誤解が解けると、わかってはいても、意地を張り続けてみたい時はあるものです。それでも一緒にかき氷を食べているところを見ると、お互いを思う心は、かなり深いようです。仲がよいからこそぶつかってしまう。人と人とのつながりとは、なんとも不思議なものです。相手の怒り方も、この先どのように和解してゆくかも、予想はついているのです。だから今、そのことを言い出す必要もないと、お互いがわかっているのです。そのうちにまた接近することは間違いがない。そんな関係性にもたれながら、氷小豆と氷イチゴでも食べているのでしょうか。「ひとくち頂戴」と、相手の氷にスプーンを持ってゆけないのが、多少つらいところです。『ことばにのせて』(2008・ブロンズ゙新社)所載。(松下育男)


July 1872009

 踏切を渡れば一気夏の海

                           大輪靖宏

んだか無性に懐かしい光景。水平線と入道雲を見ながら海へ向かう道、できれば少し上り坂がいい。単線の踏切にたどり着くと、目の前に真夏の海がひらける。線路がスタートラインであるかのように海に向かって走った夏。一気、の一語の勢いに、目の前の海から遙かな記憶の海へ、思いが広がってゆく。長く大学で教鞭をとっておられた作者だが、この句集『夏の楽しみ』(2007)のあとがきには「私は昔から夏が好きだったのだ。なにしろ、夏休みであるから働かなくていいのである」。そういえば、第一句集『書斎の四次元ポケット』(2002)に〈トランクをぱたんと閉めて夏終る〉の句があり、いたく共感した覚えがある。楽しい時間は、すぐ終わってしまう。八月になると、あっという間に過ぎる夏休み。今年は暦の関係で、17日に終業式の学校も多かっただろう。子供達も今が一番幸せな時だ。(今井肖子)




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