梅雨明けなのに「しとしと」。関係ないけど「ぷかぷか」って歌があったな。(哲




2009ソスN7ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2572009

 蟻地獄見て光陰をすごしけり

                           川端茅舎

陰とは月日。光は日、陰は月を表すという。光陰をすごす、とは、蟻地獄を見る、ということがらには、幾分大げさな気もするが、蟻が巣から出入りするのを来る日も来る日も見続けて、とうとうほとんどの蟻を区別できるようになってしまった、という逸話もある茅舎のこと。きっとひたすら見続けていたのだろう。蟻地獄の天敵は人間、それも子供というが、そのすり鉢の先はどうなっているのか、つついたり掘り返したりした覚えが確かにある。けれどきっと茅舎はいっさい触れることはなく、朝な夕な、ただ見ていたことだろう。一日のほとんどはただのすり鉢状の砂であるその巣を見続けることは、動き続ける蟻の列に見入っているより退屈とも思えるが、じっと潜むその幼虫の小さな命と語りあっていたのかもしれない。「一般に写生写生といふけれど、皆その物ばかりを見てゐて、天の一方を見ることを忘れてゐる。」という虚子の言葉を受けて茅舎は「写生はどこか天の一方を見るといふやうなゆとりが必要である。」という言葉を残している。(「茅舎に学んだ人々」(1999・鈴木抱風子編著))天の一方を見るゆとり・・・いい言葉だがなんとも難しいことだ。「ホトトギス雑詠選集夏の部」(1987・朝日新聞社)所載。(今井肖子)


July 2472009

 投票の帰りの見切苺買ふ

                           岸田稚魚

切苺は言葉の発見。この発見で一句の核は決まる。あとは演出だ。誰かが見切苺をどうするのか。あるいは見切苺自体がどうにかなるのか。主客を決め、場面を設定する。投票を用いたために、見切苺は社会的な寓意を持つに至る。熟し過ぎたかすでに腐敗も始まっているか。結局は食えずに無駄になるかもしれないけれど、それでも俺はあの候補に投票したぞという喩が生じるのである。寓意は最初から意図されると、実るほど頭を垂れる稲穂かなのように実際の稲穂の描写とは離れてまったくの箴言、標語のようになる。この句、庶民の生活の一コマを描写したあとで、じわっと寓意を感じる。その「間」が大切。『負け犬』(1957)所収。(今井 聖)


July 2372009

 ベルリンの壁の破片や夏期講座

                           中村鈴子

が小さい頃、ベルリンの壁は冷然と存在していた。家族に会うために壁を越えようと逮捕された話、銃殺された話。壁一枚で祖国分断される理不尽さを社会の授業で何度か聞かされた。ベトナム、朝鮮、ドイツ、第二次大戦から冷戦にいたる分断の構造が続いていた時代、ソ連や東欧諸国がいまのような枠組みになるとは誰も考えていなかっただろう。ベルリンの壁が壊される映像は感動的で新しい時代が来る予感の高まりに誰もが興奮したに違いない。それから20年。すでにベルリンの壁の破片は歴史的遺物になり夏期講座の机の端に置かれている。東西冷戦構造の説明のあと、先生は壁の破片を持ち上げて言うのだろう。「これがベルリンの壁の一部です」受講する生徒たちにとってその破片から当時の世界を想像できるか、夏期講座を受けている今の現実につなげることができるか。あとは生徒たちの想像力次第ということだろう。『ベルリンの壁』(2005)所収。(三宅やよい)




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