やっと夏空が戻ってきた東京。二度目の梅雨明け(笑)です。(哲




2009ソスN7ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2672009

 盆休み祖母に甘える母がいた

                           竹内麻里子

日も、全国の学生から公募して作った句集の中の一句です。娘の目から見た母親の姿を詠っています。ちょっとした驚きをもって、母親の姿を眺めています。自分の持っているどんな悩みにも、いつも的確に答えてくれるお母さんは、でも、もとからお母さんではなかったのだと、当たり前のことを確認しています。そうか、お母さんだって甘えられるだけではなくて、甘えたくもなるんだな、という思いは、自分がこれから歩む「時」の道筋を、すこし温かく感じさせてくれます。ところで、もう90歳に近いわたしの母親は、足腰が弱り、近所の老人会に行くのも一苦労です。先日、七夕の日に願い事をひとつ書いてくださいと言われ、「二十歳(はたち)になりたい」と書いたと、まじめな顔で言っていました。その話を聞いたときに、一瞬笑ってしまったものの、そののちにしゅんとなり、できるならそうしてあげてくださいと、わたしも真剣に願ったのです。『ことばにのせて』(2008・ブロンズ゙新社)所載。(松下育男)


July 2572009

 蟻地獄見て光陰をすごしけり

                           川端茅舎

陰とは月日。光は日、陰は月を表すという。光陰をすごす、とは、蟻地獄を見る、ということがらには、幾分大げさな気もするが、蟻が巣から出入りするのを来る日も来る日も見続けて、とうとうほとんどの蟻を区別できるようになってしまった、という逸話もある茅舎のこと。きっとひたすら見続けていたのだろう。蟻地獄の天敵は人間、それも子供というが、そのすり鉢の先はどうなっているのか、つついたり掘り返したりした覚えが確かにある。けれどきっと茅舎はいっさい触れることはなく、朝な夕な、ただ見ていたことだろう。一日のほとんどはただのすり鉢状の砂であるその巣を見続けることは、動き続ける蟻の列に見入っているより退屈とも思えるが、じっと潜むその幼虫の小さな命と語りあっていたのかもしれない。「一般に写生写生といふけれど、皆その物ばかりを見てゐて、天の一方を見ることを忘れてゐる。」という虚子の言葉を受けて茅舎は「写生はどこか天の一方を見るといふやうなゆとりが必要である。」という言葉を残している。(「茅舎に学んだ人々」(1999・鈴木抱風子編著))天の一方を見るゆとり・・・いい言葉だがなんとも難しいことだ。「ホトトギス雑詠選集夏の部」(1987・朝日新聞社)所載。(今井肖子)


July 2472009

 投票の帰りの見切苺買ふ

                           岸田稚魚

切苺は言葉の発見。この発見で一句の核は決まる。あとは演出だ。誰かが見切苺をどうするのか。あるいは見切苺自体がどうにかなるのか。主客を決め、場面を設定する。投票を用いたために、見切苺は社会的な寓意を持つに至る。熟し過ぎたかすでに腐敗も始まっているか。結局は食えずに無駄になるかもしれないけれど、それでも俺はあの候補に投票したぞという喩が生じるのである。寓意は最初から意図されると、実るほど頭を垂れる稲穂かなのように実際の稲穂の描写とは離れてまったくの箴言、標語のようになる。この句、庶民の生活の一コマを描写したあとで、じわっと寓意を感じる。その「間」が大切。『負け犬』(1957)所収。(今井 聖)




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