フランス語学習も4ヶ月。振り返ると基本的な動詞変化を忘れていたり…。




2009ソスN7ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2972009

 夏の月路地裏に匂うわが昭和

                           斎藤 環

は本来秋の季語だが、季節を少々早めた「夏の月」には、秋とはちがった風情を思わせるものがある。しかも路地裏で見あげる月である。一日の強い日差しが消えて、ようやく涼しさが多少戻ってきている。しかし、まだ暑熱がうっすらと残っている宵の路地だろうか。「わが昭和」という下五の決め方はどこやら、あやうい「くせもの」といった観なきにしもあらずだが、ホッとして気持ちは迷わず昭和へと遡っている。大胆と言えば大胆。「路地裏」と「わが昭和」をならべると、ある種のセンチメンタリズムが見えてくるし、道具立てがそろいすぎの観も否めないけれど、まあ、よろしいではないか。こんなに味気なくなった平成の御代にあって、路地裏にはまだ、よき昭和の気配がちゃんと残っていたりするし、人の心が濃く匂っていたりする。そこをキャッチした。同じ作者には「大宇宙昭和のおたく「そら」とルビ」という句もある。同じ昭和を詠んでいながら、表情はがらりとちがう。作者は1961年生まれの精神科医。そう言えば、久保田万太郎に「夏の月いま上りたるばかりかな」という傑作があった。『角川春樹句会手帖』(2009)所載。(八木忠栄)


July 2872009

 噴水にもたるるところなかりけり

                           中岡毅雄

近では各地で最高気温を更新するたび、噴水で遊ぶ子どもの映像が恒例になっているようだ。夏空へ広げられた清涼感あふれる噴水は、空気や地面を冷やすことで周囲の気温を下げたり、騒音を軽減する実用的な役割りのほか、水辺に憩うという心理的な安らぎを人々に与えるという。きらきらと水の粒を散らす噴水の柱は、どんなに太くあっても、当然壁のようにもたれることはできないのだが、掲句の断定にはおかしみより不安を感じさせる。しなやかで強靭に見えていた噴水が一転して、放り出された水の心もとなさをあらわにするのだ。人工的に作られた装置によって、身をまかせている水の群れが、健気な曲芸師にも見えてくる。現在、日本を含め世界中で、このひたむきな水を思うままに操って、噴水はさまざまなかたちに演出される。ネットサーフィンしているなかで、贅を尽くしたドバイの踊る噴水(3分強/サウンド有)に息をのんだ。自在に踊る水にもっとも似ているものは、もっとも遠いはずの炎であった。火もまた、もたれることができないもののひとつである。〈水馬いのちみづみづしくあれよ〉〈生きてふるへるはなびらのことごとく〉『啓示』(2009)所収。(土肥あき子)


July 2772009

 腹黒き女は急ぐ油照

                           久保純夫

っとしていても脂汗が流れてくる暑さ。「油照」とはよくも名づけたり。そんな暑さの中にいると、たいていの人は半ばヤケ気味になる。判断力や思考力も減退してくる。そんなだから、こんな句もできたりする。句の「女」は複数だろう。単数だったら、「女は」ではなく「女が」になるははずだからだ。つまり、多くの人がだるそうにのろのろ歩いているのに、腹黒女だけは急ぎ足になっているということだ。そんなことは傍目にわかるわけもないけれど、なにせ作者はヤケ気味なのであるからして、急いでいる女性がみな何かを企んでおり、それを成就するための早足と見えてしまっている。暑さを物ともせずに歩いている人は、見方を変えれば頼もしくも颯爽として見えるものなのだが、暑さにまいっている作者には、とてもそうは見えないのである。つい、意地悪な目になってしまう。そして、この腹黒の「黒」の連想は、黒色が熱さを吸収するという常識にも添っている。この句がなんとなく可笑しいのは、我々にその常識があるからで、腹黒女は身体の芯まで猛烈に暑いくせに、よくもまあ涼しい顔して糞暑い表を歩けるものだと、意地悪熱に拍車がかかる理屈である。それもこれもが、人間には制御できない自然の成り行きのせいだ。願わくば、この夏が油照をあまりもたらしませんように。『フォーシーズンズ』(2009)所収。(清水哲男)




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