青空がもどってきました。何度目の梅雨明けでしょうか(笑)。(哲




2009ソスN8ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1282009

 群集の顎吊り上げし花火かな

                           仲畑貴志

の夜を彩って、日本各地であげられていた花火も一段落といった時季。これまでの幾歳月、じつに多くの土地でさまざまな花火を見てきた。闇が深くなる花火会場に押し寄せてくるあの大群集は、異様と言えば異様な光景である。花火があがるたびに、飽きもせずひたすら夜空を見あげる顔顔顔顔。その視線や歓声ではなく、掲出句ではあがる花火につり上げられるがごとき人々の顎に、フォーカスしている。そこにこの句のユニークな味わいがある。視点を少々ずらした発見。たわいもなく顎を吊り上げられてしまうかのような群集の様子は、ユーモラスでさえある。花火があがるたびに、夜空へいっせいに吊り上げられてゆく顎顎顎顎。老若男女それぞれの顎顎顎顎。絵師・写楽なら、表情のアップをどのような絵に描いてくれただろうか、と妄想してみたくなる。張子の玉が勢いよく夜空へ上昇して行くにしたがって、群集の顎たちも同時に吊り上げられて行き、空中で開いたり、しだれたりするさまを、目ではなく顎そのものでとらえているのである。コピーライターである貴志には「日向ぼこ神に抱かれているごとく」という句もある。『角川春樹句会手帖』(2009)所載。(八木忠栄)


August 1182009

 三人の棲む家晩夏の灯を三つ

                           酒井弘司

人家族が一軒の家のなかで別々の灯を持つことは、個別の夜を過ごしているということだ。父はリビングでナイター、母は風呂場、娘または息子は部屋でパソコン、というところだろうか。掲句は夏の盛りを過ぎた季節のなかで、家族のありようも描いている。いつか清水哲男さんが「家族にも旬のときがある」と書かれたことがあったが、夫婦から子どもが誕生し、にぎやかな笑い声や厳しい叱咤などに囲まれながら親も子も成長していく毎日が旬と呼べる時代なのだろう。いわば、大きなひとつの明かりのなかに集う時代を家族の頂点とするならば、かの家族は旬を過ぎようとするひとコマといえる。分裂していく小さな部屋の明かりは、そこに生活する人間そのものが灯っているようにも見えてくる。それぞれの影を胸に畳みながら、大人同士が生きていくのも、また家族の風景なのである。句集名となった「谷風(こくふう)」は、『詩経国風』から。東から吹く春風、万物を生長させる風の意であるという。『谷風』(2009)所収。(土肥あき子)


August 1082009

 秋日差普通のひとが通りけり

                           笹尾照子

書きに「左足骨折入院」とある。このところの私は、いささか歩行に困難を覚えるときがある。腰痛と加齢によるものだろう。時々ふらついてしまう。むろん骨折による歩行不能に比べれば、はるかに軽度な障害だけれども、この句にはしみじみと納得できる。いつか歩行不能の人が「人間には歩ける人と歩けない人の二種類ががいる」と言ったのを覚えているが、これまた納得だ。入院してベッドに縛りつけられた作者は、たまたま窓外を通りかかった人を見て、猛烈な羨望の念にとらわれた。どこの誰とも知らないその人は、ただいつものように歩いているだけなのだが、作者にしてみると、そのこと自体が羨ましくて仕方がない。ふだんなら気にもならない「普通の人」が、こんなにも生き生きとまぶしく写るとは……。「普通の人」という普通の言葉が、それこそこんなにも普通ではなく輝いて見える句も珍しいのではないか。作者の手柄は、この「普通の人」の措辞を発見したところにある。当たり前の言葉のようだが、けっしてそうではない。そしてたまたま秋の入院なのだが、秋の日差しには透明感があり、事物の輪郭をくっきりと描き出す。この「普通の人」もくっきりとした輪郭と影を持ちながら歩いていった。それがまた、作者の羨望の念をいやがうえにも掻き立てたのである。『音階』(2009)所収。(清水哲男)




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