海老沢泰久も山城新伍も年下だった。「空しいなあ」と月並みな呟き。(哲




2009ソスN8ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1682009

 肩が凝るほど澄みきつている空だ

                           青木澄江

が凝るという表現が、秋の空を表すのに適しているかどうかについては、人によって考え方も違うでしょう。ただ、空が高くから下りてきて、目の中をいっぱいにする様子は、容易に想像できます。あふれるほどの空は、まぶたから外へこぼれることなく、視神経を通過して人の奥へ入り込んでゆきます。この視神経の疲れが、目と、肩こりを結びつけているのだと、一応理屈は付けられますが、そんなことはどうでもよいでしょう。むしろ、肩が凝るほどに澄んだ空を見つめ続けるこの人に、いったい何があったのかと、つい想像してしまうのです。思えば文学作品で読む空のほうが、現実で見上げる空よりも、実際は多いのかもしれません。鳥が飛んでいなければ、空のことはもっと分かりづらかった、という詩が、そういえばありました。具体的な出来事はわからないけれども、なんにもないものをひたすら見つめていたい心持は、だれだって理解できます。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 1582009

 人棲まぬ島にもみ霊敗戦忌

                           松本泊舟

日という日もこの句も、言わずもがな、だろう。棲、という文字が語る、太平洋上の名もない島に眠る戦没者への鎮魂の心は、戦争を体感していない者にも伝わってくる。季題として考える時、終戦の日か敗戦の日か、戦争体験世代の意見はさまざまのようだ。だいたい終戦記念日というのはおかしいのでは、いや後世まで忘れない、という意味で記念なのだからいいのだ等も。この句の場合、敗戦忌。終戦忌、敗戦忌は俳人による造語、というが、掲出句は『文学忌俳句歳時記 大野雑草子編』(2007・博友社)に載っていた。文人の忌日をまとめた歳時記なのだが、そこに、個人の忌日に混ざって、原爆忌(広島忌)、長崎忌(浦上忌)、終戦記念日(終戦忌・敗戦忌)が立てられている。数々の個人の忌日同様、忘れることなく詠み継いでいって欲しい、という編者の祈りにも似た願いが感じられる。(今井肖子)


August 1482009

 見られゐて種出しにくき西瓜かな

                           稲畑汀子

かるなあ。西瓜にかぶりついて、ぺっぺと口から種を吐く人。なんとなくあれが西瓜を食べる作法かと思っているが、どうにもそれがうまくできない。技術的に無理なのだが、その風情にもなじめない。フォークで種をほじって出してからかぶりつくが、どうも見た目が悪いし、かぶりついた中にまだ種が残っているとそれはそれで口から吐かねばならない。これもみっともない。先日中国人の友達に、食事中になんでも床に捨てる中国式のマナーにクレームをつけたら、日本人は蕎麦を食うときどうしてあんなに汚い音を平気で立てるのかと逆襲された。食の作法もさまざまである。花鳥諷詠は、作者の「私」が作品に現れないことが多い。また現れないことをもってしてよしとする傾向にあるが、この句は「私」がちゃんと出ている。『ホトトギス季題便覧』(2001)所収。(今井 聖)




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