街にいつもの人の流れが戻ってきます。残暑厳しき折からご自愛を。(哲




2009ソスN8ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1782009

 ジャンケンの無口な石が夕焼ける

                           西本 愛

焼けの情感を描いて、革新的な句だ。大正期の有名な童謡に「ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む ぎんぎんぎらぎら 日が沈む」ではじまる「夕日」(葛原しげる作詞)がある。この歌を紹介する絵本などの絵の構図は、例外なく大夕焼けをバックにして遊ぶ子供たちの小さなシルエットが浮かんでいるというものである。歌詞の内容がそうなのだから、そのように描いてあるとも言えるのだけれど、この構図が示しているのは、もっと深いところで私たち日本人の美意識につながっているそれなのだと思う。大自然の前の点景としての人間は、自然の永遠性と人間存在のはかなさを物語っているのであり、この構図を受け入れるときに、束の間にせよ、私たちの情感は安定する。島崎藤村ではないが、「この命なにをあくせく」と、自然に拝跪する心が生まれてくる。掲句を革新的と言うのは、句がそのような予定調和的な情緒安定感を意識的に破ろうとしているからだ。子供らのシルエットをぐいっと精度の高い望遠レンズでたぐり寄せたような構図が、作者の従来の情緒に落ちない意思を明示している。ここで昔ながらの美の遠近法はいわば逆転しているわけで、人間中心の美意識が芽生えている。と、ここまではひとつの理屈にすぎないけれど、たかが「ジャンケンの石」に夕焼けを反映させてみせただけで、いままでには無かった夕焼けの情感が生まれていることに、私は覚醒させられたのだった。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


August 1682009

 肩が凝るほど澄みきつている空だ

                           青木澄江

が凝るという表現が、秋の空を表すのに適しているかどうかについては、人によって考え方も違うでしょう。ただ、空が高くから下りてきて、目の中をいっぱいにする様子は、容易に想像できます。あふれるほどの空は、まぶたから外へこぼれることなく、視神経を通過して人の奥へ入り込んでゆきます。この視神経の疲れが、目と、肩こりを結びつけているのだと、一応理屈は付けられますが、そんなことはどうでもよいでしょう。むしろ、肩が凝るほどに澄んだ空を見つめ続けるこの人に、いったい何があったのかと、つい想像してしまうのです。思えば文学作品で読む空のほうが、現実で見上げる空よりも、実際は多いのかもしれません。鳥が飛んでいなければ、空のことはもっと分かりづらかった、という詩が、そういえばありました。具体的な出来事はわからないけれども、なんにもないものをひたすら見つめていたい心持は、だれだって理解できます。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 1582009

 人棲まぬ島にもみ霊敗戦忌

                           松本泊舟

日という日もこの句も、言わずもがな、だろう。棲、という文字が語る、太平洋上の名もない島に眠る戦没者への鎮魂の心は、戦争を体感していない者にも伝わってくる。季題として考える時、終戦の日か敗戦の日か、戦争体験世代の意見はさまざまのようだ。だいたい終戦記念日というのはおかしいのでは、いや後世まで忘れない、という意味で記念なのだからいいのだ等も。この句の場合、敗戦忌。終戦忌、敗戦忌は俳人による造語、というが、掲出句は『文学忌俳句歳時記 大野雑草子編』(2007・博友社)に載っていた。文人の忌日をまとめた歳時記なのだが、そこに、個人の忌日に混ざって、原爆忌(広島忌)、長崎忌(浦上忌)、終戦記念日(終戦忌・敗戦忌)が立てられている。数々の個人の忌日同様、忘れることなく詠み継いでいって欲しい、という編者の祈りにも似た願いが感じられる。(今井肖子)




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