仏検を受けることにした。趣味の勉強でも目標はあったほうが‥。(哲




2009ソスN9ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0592009

 食べ方のきれいな男焼秋刀魚

                           二瓶洋子

刀魚、と秋の文字が入っているが、今開いている歳時記の解説によれば、江戸時代には「魚中の下品(げぼん)」と言われ、季題にもされなかったという。子供の頃、七輪を裏庭に出して焼いていると、お約束のように近所の猫がやってきたが、やおら魚をくわえて逃げる、ということはなく、なんとなく一緒に焼けるのを待っていた。妹は特にそれこそ猫跨ぎ、頭と骨だけ矢印のように残して食べたが、そういえば父は食べ方があまりうまくなかったように思う。見るからに器用そうな指をしながら、不器用だからだろうか。魚はきれいに残さず食べる方がいいに違いないけれど、初めて一緒に魚を食べたら思いのほか下手なところが、なんだか好もしく思えたり、あまりに見事に残された骨を見て、その几帳面さがふといやになったり。この句の場合はやはり、食べている男も、食べられている秋刀魚のように、すっきりした男ぶりなのだろうか。『新日本大歳時記 秋』(1999・講談社)所載。(今井肖子)


September 0492009

 秋風や書かねば言葉消えやすし

                           野見山朱鳥

かれない言葉が消えやすいのは言葉が思いを正しく反映しないからだろう。もやもやした言葉になる以前の混沌をそれでも僕らは言葉にしないと表現できない。加藤楸邨には「黴の中言葉となればもう古し」がある。書かねば消えてしまう言葉だからと、書いたところでそれはもう書かれた瞬間に「もやもやした真実」とは乖離し始める。百万言を費やしたところで、僕らは思いを正確に伝えることは不可能である。不可能と知りつつ僕らは今日も言葉を発し文字を書き記す。言葉が生まれたときから自己表現とはそういうもどかしさを抱え込んでいる。『現代の俳人101』(2004)所載。(今井 聖)


September 0392009

 天涯に鳥のかほある桔梗かな

                           高柳克弘

梗は五つに裂けた花びらを持つ青紫色のきりっとした姿の花。秋の深い空のはてを飛行する鳥の嘴を突きだした鋭い横顔はこの花弁のかたちと似通うところがある。鳥が空を渡る様は地上からうかがい知ることはできないが、本能の命じるままに飛び続けるその顔は真剣そのものだろう。眼前に咲く桔梗から天上を渡る鳥の横顔に連想が及ぶところが飛躍であり、その飛躍には端正な色の美しさと鋭い輪郭をイメージの共通項として含んでいる。「枯山に鳥突きあたる夢の後」という藤田湘子の句があるが、モノクロームを思わせる湘子の句では夢から覚めたあと夢の中を飛び続けていた鳥は枯山に突き当たって落下してしまうのかもしれないが、この句の鳥はひたすら紺碧の空を飛び続けるのではないか。そしてそのひたむきな飛行は青春の明るさより、終わりのない孤独を暗示しているようにも思えるのだ。『未踏』(2009)所収。(三宅やよい)




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