昨日は好天に誘われて昭和記念公園へ。広すぎて歩きすぎて脚を痛めた。(哲




2009ソスN9ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1192009

 校門をごろごろ閉ぢて秋の暮

                           本井 英

の句の魅力は一点「ごろごろ」である。秋の暮はもともとは秋季の終わりという意味だが、最近は秋の夕暮という意味に使う例が多いらしい。本井さんは季語の本意に詳しい方なので、前者の意味だと僕は思う。秋も終わりごろの朝の校門の風景。これを暮際だととると下校の指導のあとか、用務担当の仕事になる。やはり朝。登校してくる生徒の服装やら持ち物やらに眼を光らせたあと、教師がごろごろと門を閉じる。重い扉を全力で閉めながら、ときどき教師は「チクショー!」とでも叫び出したくなる。人を教えるという職業の嘘臭さ、いかがわしさ、また無力感が自らを振り返るとき思われる。この「ごろごろ」はそういう音だ。『八月』(2009)所収。(今井 聖)


September 1092009

 吾亦紅百年だって待つのにな

                           室田洋子

石の『夢十夜』に「百年、私の墓の傍に座つて待つていて下さい。屹度逢ひに来ますから」と死に際の女が男に言い残すくだりがある。墓のそばで時間の経過もわからなくなるぐらい待ち続けた男のそばで真白な百合がぽっかり咲いたとき「百年はもう来てゐたんだな」と男は気づく。掲句はその場面をふまえて作られているように思う。漱石の夢では女は花になって帰ってきたが、吾亦紅になって愛しい人を待ちたいのは作者自身だろう。待っても、待っても二度と会えないことを知りながら、ああ、それでもあの人に会えるなら百年だって待つのにな、と逆説的に表現している。吾亦紅の花に派手さはないが、赤紫の小さな頭を風に揺らす様子がかわいらしい。子供っぽい口語口調で表現されているが、待っても来ない哀しさをこんな表現に転換できるのはあきらめを知ったおとなの感情だろう。秋の暮れまで野に咲き続ける吾亦紅が少しさびしい。『まひるの食卓』(2009)所収。(三宅やよい)


September 0992009

 窓に干す下着に路地の秋は棲む

                           大西信行

り気のないなかに、市民の小さなかけがえのない日常が切りとられている句である。路地を歩いていて、ふと目にしたさりげない光景であろう。秋の涼風に吹かれて心地良さそうに乾いてゆく下着、それが男物であろうと女物であろうと、その光景を想起しただけで、秋を受け入れて気持ちがさわやかに解き放たれてくるようにさえ感じられる。しかも、人通りの少ない路地で風に吹かれながら、下着が秋を独占していると考えれば微笑ましいではないか。人間臭い路地の秋が、きれいに洗濯されて干された下着に集約されて、秋が生き物のようにしばし棲んでいるととらえた。そんなところに思いがけず潜んでいる秋は、ことさら愛しいものに感じられてくる。小さくともこころ惹かれる秋である。信行は劇作家で、俳号は獏十(ばくと)。東京やなぎ句会発足時の十名のメンバーのひとり。(俳号通りの「博徒」でいらっしゃるとか…)他に「石垣の石は語らず年果つる」「心太むかしのままの路地の風」などがある。『五・七・五』(2009)所載。(八木忠栄)




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