バスの日。1903年の今日、初の営業バスが京都市内を走ったことに由来。(哲




2009ソスN9ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2092009

 ふと火事に起きて物食ふ夜長哉

                           巌谷小波

語は火事のほうではなく「夜長」で、秋です。なんだかはっきりとしなかった今年の夏も、はっきりとしないまま終わってしまったようで、気がつけば最近は日が暮れるのがずいぶんと早くなってきました。いちにちの内の、夜の占める割合が増えただけ、夜に起きる出来事が増えるのは理屈にあっており、でもいつの季節であっても、火事がおこるのは夜が多いものです。秋ともなれば、そうそうに布団に入ることもあり、深く眠ったその先で、耳から入る消防車の音を、わけもわからず聞いていたものと思われます。いつまでも続く音とともに目が覚めてみれば、そうか遠くで大きな火事があったのだなと、理由はわかったものの、いったん目が覚めてしまったらもう眠れそうもありません。ではと、夕食も早かったし、なにかつまむものはないかと思ったのでしょう。台所へ向かう静かな足音まで聞こえてきそうな、この場の心情にぴたりと嵌る句になっています。火事という、日常とはちょっと違った出来事に遭遇して、心は多少興奮を覚えているのかもしれません。空腹を覚えた、というよりも、心のざわめきを静めるために、少しの食物が必要だったのです。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


September 1992009

 蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ

                           川端茅舎

蚓(みみず)は鳴かない、じーと聞こえるのは螻蛄(けら)などが鳴いているのだ、と言われる。だから、蚯蚓鳴く、というのは、要するにそんな気がする秋の感じなのだと。蚯蚓鳴く、が兼題になり、そんな感じと言われても困ったな、と虚子編歳時記を。すると、なにやら解説が異常に長い。いきなり「聲がよくなるといふので煎じてのむことも」とあり、うへ、と思いつつ読んでいくと「腹中泥ばかりの蚯蚓が鳴くともおもはれない」、やはりね。さらに読むと「蚯蚓とけらとを置きかへて見ても詮ないことであらう。すべての動物は皆それぞれの聲を持つてゐるのかもしれない」と続く。蝶も実は高音を発しているらしい、と述べながら、それらの音はヒトには聞きとることができないのだ、と書かれている。土の中で激しく動き回るという蚯蚓が、土中の闇の中で呼び合っているのかもしれない、と思うと、不思議な気持ちになる。茅舎も、自分の瞬きすらあやふやになるような真闇の中で、本来は聞こえるはずのない音無き音を肌で感じとったのだろうか。一字一字確認するような、しんのやみ。『虚子編 新歳時記』(1940・三省堂)所載。(今井肖子)


September 1892009

 満月に落葉を終る欅あり

                           大峯あきら

のように一本の欅が立つ。晩秋になり葉を落してついに最後の一枚まで落ち尽す。そこに葉を脱ぎ捨てた樹の安堵感が見える。氏は虚子門。虚子のいう極楽の文学とはこういう安堵感のことだ。落葉に寂寥を感じたり、老醜や老残を見たりするのは俳句的感性にあらず。俳句が短い詩形でテーマとするに適するのはやすらぎや温かさや希望であるということ。この句がやすらぎになる原点は満月。こういう句を見るとやっぱり俳句は季語、自然描写だねと言われているような気がする。さらにやすらぎを強調しようとすれば、次には神社仏閣が顔を出す。だんだん「個」の内面から俳句が遠ざかっていき、俳句はやすらぎゲームと化する。難しいところだ。『星雲』(2009)所収。(今井 聖)




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