Nous sommes JEUDI.  もう木曜日なんですね。早いなあ。(哲




2009ソスN9ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2492009

 あの頃へ行こう蜻蛉が水叩く

                           坪内稔典

の頃っていつだろう。枝の先っちょに止まった蜻蛉を捕まえようとぐるぐる人差し指を回した子供のころか、いつもの通学路に群れをなして赤蜻蛉が飛んでいるのを見てふと秋を感じた高校生の頃なのか。今、ここではない別の場所、別の時間へ読み手を誘う魅力的な呼びかけだ。その言葉に「汽車に乗って/あいるらんどのような田舎へ行こう/ひとびとが祭の日傘をくるくるまわし/日が照りながら雨のふる/あいるらんどのような田舎へ行こう」という丸山薫の「汽車にのって」という詩の一節を思い出した。掲句には、この詩同様ノスタルジックな味わいがある。あいるらんどのような田舎に蜻蛉は飛んでいるだろうか。汽車に乗らなくとも川原の蜻蛉がお尻を振って何度か水を叩くのをじっと見つめれば、誰でもギンヤンマやシオカラトンボを夢中になって追いかけた少年の心持ちになって、それぞれの「あの頃」へ戻れるかもしれない。『水のかたまり』(2009)所収。(三宅やよい)


September 2392009

 名月や橋の下では敵討ち

                           野坂昭如

やら時代劇映画のワンシーンを思わせる。貼りつけたような名月が耿々と冴える夜の河原で、ススキを背に大刀をかまえるたくましい豪の者に対し、殿か父の仇か知らないが、どこか脆さが見える若者……とまあ、このあたりの空想はきりがない。敵討ちは橋の上ではなく,人けのない橋の下の荒地でということになろう。それが映画であれ、芝居であれ、いかにも絵になる光景である。六、七年前だったか、野坂昭如による正岡子規の俳句についての講演を聴いたことがある。この両者の取り合わせが私には意外だった。四年前に脳梗塞で倒れる以前、文壇句会に常連として招かれると、いつも好成績をあげていたという。掲出句は、元担当編集者だった宮田さんが、脳力アップのためのリハビリとして勧めた《ひとり連句》のうち、「寝床の中の巻」の「月の座」で詠まれた一句であり、(恋)猫の恋にらみは団州仕込みなり、(雑)知らざあ言って聞かせやしょう、を受けたもの。それまでの歌舞伎調の流れを受けての連想らしい。「チャンバラ映画の撮影でもいい」というのが自註。連句のこむずかしい約束事に拘泥することなく、自在に言葉遊びを楽しんでいる点がすばらしい。『ひとり連句春秋』(2009)所収。(八木忠栄)


September 2292009

 犬の仔の直ぐにおとなや草の花

                           広渡敬雄

に入りのひとコマ漫画に、愛犬の写真を毎年撮ってずらりと飾ってある居間を描いたものがある。一枚目の子犬の他はどれも全部、全く同じ表情の成犬が愛想なく並んでいて、見ている方をクスリと笑わせる。子犬や子猫の時代の可愛らしさは、飼い主の記憶のなかでは、そのいたずらな行為とともに永遠に記憶に刻まれるが、実際の時間としてはまたたく間に過ぎてしまう。拾ってきた当初、ティッシュボックスのなかで眠れるほどの大きさだったわが家の三毛猫も、一歳を迎える前に一夜にして大人びた顔の恋猫になった。そこには、本人(猫だが)も当惑しているような居心地の悪さも見えはしたが、誰に教わることなく、恋猫特有の鳴き声を朗々と披露したのだった。しかして動物たちの成長の勢いは、思春期を思い悩むこともなく、さっさと大人になり、さっさと飼い主の年齢を追い抜いていく。掲句の切れ字「や」により引き出されるわずかな詠嘆が、この愛らしい生きものが人間よりずっと短い寿命を持つことを言外に匂わせている。『ライカ』(2009)所収。(土肥あき子)




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