ラジオ仏語講座修了。後半の進みぶりたるや、今季ジャイアンツの如し。(哲




2009ソスN9ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2592009

 遺句集といふうすきもの菌山

                           田中裕明

五中七と下五の関係の距離が波多野爽波さんとその門下の際立った特徴となっている。作者はその距離に「意味」を読み取ろうとする。意味があるから付けているのだと推測するからである。さまざまに考えたあげく読者はそこに自分を納得させる「意味」を見出す。たとえば、遺句集がうすい句集だとすると、菌山もなだらかな低さ薄さだろう。この関係は薄さつながりで成り立っていると。同じ句集にある隣の句「日英に同盟ありし水の秋」も同様。たとえば日英同盟は秋に成立したのではないかと。こういう付け方は実は作者にとっては意味がないのだ。意味がないというよりは読者の解読を助けようとする「意図」がないのだ。関係を意図せず、或いはまったく個人的な思いで付ける。あまりに個人的、感覚的であるために読者はとまどい、自分から無理に歩み寄って勝手にテーマをふくらませてくれる。言ってみれば、これこそが作者の狙いなのだ。花鳥諷詠という方法があまりにも類想的な季語の本意中心の内容しか示せなくなったことへの見直しがこの方法にはある。『先生から手紙』(2002)所収。(今井 聖)


September 2492009

 あの頃へ行こう蜻蛉が水叩く

                           坪内稔典

の頃っていつだろう。枝の先っちょに止まった蜻蛉を捕まえようとぐるぐる人差し指を回した子供のころか、いつもの通学路に群れをなして赤蜻蛉が飛んでいるのを見てふと秋を感じた高校生の頃なのか。今、ここではない別の場所、別の時間へ読み手を誘う魅力的な呼びかけだ。その言葉に「汽車に乗って/あいるらんどのような田舎へ行こう/ひとびとが祭の日傘をくるくるまわし/日が照りながら雨のふる/あいるらんどのような田舎へ行こう」という丸山薫の「汽車にのって」という詩の一節を思い出した。掲句には、この詩同様ノスタルジックな味わいがある。あいるらんどのような田舎に蜻蛉は飛んでいるだろうか。汽車に乗らなくとも川原の蜻蛉がお尻を振って何度か水を叩くのをじっと見つめれば、誰でもギンヤンマやシオカラトンボを夢中になって追いかけた少年の心持ちになって、それぞれの「あの頃」へ戻れるかもしれない。『水のかたまり』(2009)所収。(三宅やよい)


September 2392009

 名月や橋の下では敵討ち

                           野坂昭如

やら時代劇映画のワンシーンを思わせる。貼りつけたような名月が耿々と冴える夜の河原で、ススキを背に大刀をかまえるたくましい豪の者に対し、殿か父の仇か知らないが、どこか脆さが見える若者……とまあ、このあたりの空想はきりがない。敵討ちは橋の上ではなく,人けのない橋の下の荒地でということになろう。それが映画であれ、芝居であれ、いかにも絵になる光景である。六、七年前だったか、野坂昭如による正岡子規の俳句についての講演を聴いたことがある。この両者の取り合わせが私には意外だった。四年前に脳梗塞で倒れる以前、文壇句会に常連として招かれると、いつも好成績をあげていたという。掲出句は、元担当編集者だった宮田さんが、脳力アップのためのリハビリとして勧めた《ひとり連句》のうち、「寝床の中の巻」の「月の座」で詠まれた一句であり、(恋)猫の恋にらみは団州仕込みなり、(雑)知らざあ言って聞かせやしょう、を受けたもの。それまでの歌舞伎調の流れを受けての連想らしい。「チャンバラ映画の撮影でもいい」というのが自註。連句のこむずかしい約束事に拘泥することなく、自在に言葉遊びを楽しんでいる点がすばらしい。『ひとり連句春秋』(2009)所収。(八木忠栄)




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