中脳梗塞で入院したが無事退院。とあった友人のブログが止まったままに。(哲




2009ソスN9ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2792009

 水澄むや日記に書かぬこともあり

                           杉田菜穂

語は「水澄む」。こうして読んでみるとこの季語は、「日記」という語によく似合います。水が澄んでいるかどうかを確かめるために水面にかぶせた顔と、日記を書くために過ぎた一日にかぶせた顔が、どこか重なってきます。大串章さんはこの句の選評で、「日記に書かれないのは、忘れたいためか、それとも秘密にしておきたいためか」と書いています。どちらにしても、読者の想像は心地よい刺激を受けます。でも、どちらかというと秘密のほうなのかなと、ぼくは思います。自分のほかにはだれも読むことのない日記の中にさえ、明かしたくないことがあるなんて。そんなに秘めやかなことがあるんだなと、それだけで感心してしまいます。なんだか日記が、旧来の友人ででもあるかのように感じられ、静かな呼吸をしながら、秘密をいつ明かしてくれるのかをそばで待っているようです。昨今の、未知の人にさえ公開して、コメントを待っているブログ日記とは、なんと大きな隔たりがあることかと、思われるわけです。『朝日俳壇』(朝日新聞・2009年9月21日付)所載。(松下育男)


September 2692009

 秋澄めり父と母との身長差

                           川嶋一美

らしい夏がなかったと言われる今年。秋も短くてすぐ冬になるらしい、などという噂も聞く。それでも、このところ晴れると空が高く、ついぼーっと見上げてしまう。ここ数年、秋晴れの朝の通勤途中、歩きながら車窓の景色を見ながら、この日差しの感じってどう詠めばいいのかな、とずっと思っていた。確かに眩しくて強いのだけれど、どこかすべてが遠い記憶の中のような秋日。その感じを句にしかけるのだが、どうもうまくいかない。そんな時この句に出会った。浮かんだのは、並んで歩く二人の後ろ姿。秋日の中のその姿は、現実なのか、記憶の中なのか。いずれにしても、私の中のもやもやとした秋日のイメージを、身長差、という言葉が鮮やかに立ち上げてくれた。秋澄む、という言葉が、透明感を越えた何かを感じさせてくれたのは、父と母との身長差、の具体性とそこにある作者の確かな視線ゆえなのだろう。「空の素顔」(2009)所収。(今井肖子)


September 2592009

 遺句集といふうすきもの菌山

                           田中裕明

五中七と下五の関係の距離が波多野爽波さんとその門下の際立った特徴となっている。作者はその距離に「意味」を読み取ろうとする。意味があるから付けているのだと推測するからである。さまざまに考えたあげく読者はそこに自分を納得させる「意味」を見出す。たとえば、遺句集がうすい句集だとすると、菌山もなだらかな低さ薄さだろう。この関係は薄さつながりで成り立っていると。同じ句集にある隣の句「日英に同盟ありし水の秋」も同様。たとえば日英同盟は秋に成立したのではないかと。こういう付け方は実は作者にとっては意味がないのだ。意味がないというよりは読者の解読を助けようとする「意図」がないのだ。関係を意図せず、或いはまったく個人的な思いで付ける。あまりに個人的、感覚的であるために読者はとまどい、自分から無理に歩み寄って勝手にテーマをふくらませてくれる。言ってみれば、これこそが作者の狙いなのだ。花鳥諷詠という方法があまりにも類想的な季語の本意中心の内容しか示せなくなったことへの見直しがこの方法にはある。『先生から手紙』(2002)所収。(今井 聖)




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