vト榛句

September 3092009

 池よりも低きに聞こゆ虫の声

                           源氏鶏太

の際、「鳴いている虫は何か?」と虫の種類に特にこだわる必要はあるまい。リーンリーンでもスイッチョンでもガチャガチャでもかまわない。通りかかった池のほとりの草むらで、まめに鳴いている虫の声にふと耳をかたむける。地中からわきあがってくるようなきれいな声が、あたかも静かな池の水底から聞こえてくるように感じられたのである。「池よりも低き」に想定して聞いたところに、この句の趣きがある。しかも「池」の水の連想からゆえに、虫の声が格別澄んできれいなものであるかのように思われる。たしかに虫の声が実際は足元からであるにしても、もっと低いところからわいてくるように感じられても不思議はない。詠われてみれば当たり前のことだが、ふと耳をかたむけた作者の細やかな感性が、静けさのなかに働いている。ただ漠然と「ああ、草むらで虫が鳴いているなあ」では、そこに俳句も詩も生まれてくる余地はない。鶏太には晩秋の句「障子洗ふ川面に夕日あかあかと」がある。また、久米正雄の虫の句には「われは守るわれの歩度なり虫の声」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


August 0482010

 秋めくや貝ばかりなる土産店

                           久米正雄

れほど賑わっていた海浜も、秋に入って波は高くなり、客も減ってくる。砂浜を初秋の風が徐々に走り出す。土産店もすっかり客足が途絶えてしまった。どこでも売っているような、子ども相手のありふれた貝細工くらいしか今は残っていない。この土産店は海水浴客相手の、夏場だけの店なのかもしれない。店内は砂埃だけが目立って、もはやあまり商売にならない時季になってしまった。海浜の店で売っているから、貝のおみやげはすぐそこの海で採れた貝であるという、整合性があるように感じられても、たいていはその海であがった貝ではない。各地から集められた貝が画一的に加工され、それを店が仕入れてならべているのだ。だから、自分が遊んで過ごした浜で拾った何気ない貝こそが、記念のおみやげになるわけである。売れ残って店にならぶ貝殻が、いかにももの淋しい秋を呼んでいるような気配。何年か前、秋めいた時季に九十九里浜へ出かけたことがあった。すでに海水浴客はほとんどいなくて、浜茶屋もたたみはじめていた。辛うじてまだ営業している浜茶屋に寄ると、何のことはない、従業員たち数人が暇をもてあまし、商売そっちのけで花札に興じていた。真っ黒い青年が「今度の日曜日あたりにはたたむだよ」と言っていた。「秋めくや売り急ぐものを並べけり」(神谷節子)。掲句の店では、もう「売り急ぐもの」などない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 1432012

 炬燵今日なき珈琲の熱さかな

                           久米正雄

月中旬にもなって炬燵の句?――と首をかしげるむきがあるかもしれない。けれども、少し春めいてきて暖かくなったからといって、さっさと炬燵やストーブを片づけることにはなかなかならないものだ。しばらく暖房で過ごしてきたことの惰性もあるし、北の地方ではそろそろ片付けていい時季であっても、まだ寒さが残っている。(今年はいつまでも寒い。)炬燵を取り去った当初はがらんとして、部屋にはどこかしら寒々しさが漂う。そんな時にすする珈琲の熱さは、ひとしお熱くありがたく感じられるだろう。熱い珈琲カップを、両手で押しいただいているといった様子が見えてくる。そうやって人々は徐々に春に馴染んで行くわけだ。「炬燵」という古い語感と、しゃれた語感の「珈琲」の取り合わせに注目したい。また「今日炬燵…」ではなく、「炬燵今日…」とした語法によって「炬燵」が強調され、リズムも引き締まった。正雄は三汀と号し、俳句の本格派でもあった。他に「綾取りの戻り綾憂し春の雨」がある。平井照敏編『新歳時記・春』(1996)所収。(八木忠栄)


November 11112015

 駅おりて夜霧なり酒場あり

                           久米正雄

んな辺鄙な土地であっても、駅をおりるとたいてい居酒屋があるものだ。呑兵衛にとってはありがたいことである。お店はきたなくても、少々酒がまずくても、ぴたりとこない肴であっても、お酌するきれいなネエちゃんがいなくても、霧の深い夜にはなおのこと、駅近くに寂しげにぶらさがっている灯りは何よりもうれしい。馴染みの店ならば、暖簾くぐると同時に「いらっしゃい!」という一声。知らぬ土地ならばなおいっそう、そのうれしさありがたさは一入である。夜霧よ、今夜もありがとう。中七の字たらず「夜霧なり」で切れて、下五へつながるあたりのうまさは、さすがに三汀・久米正雄である。五・五・五が奇妙なリズムを生んでいる。夜霧がいっそう深さを増し、あらためてそのなかに浮きあがってくる「酒場」が印象的である。暖簾をくぐったら、店内はどうなっているのだろうか? 勝手な想像にまかされているのもうれしい。正雄は俳誌「かまくら」を出して、鎌倉文士たちと俳句を楽しんだ。「かなぶんぶん仮名垣魯文徹夜かな」など、俳句をたくさん残している。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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