苔寺にふり溜りゐる秋の雨(京極杞陽)。東京も雨の日がつづきそうです。(哲




2009ソスN10ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 02102009

 昨夜夢で逝かしめし妻火吹きおり

                           野宮猛夫

夜夢の中で死なせてしまった妻が今火吹き竹で火を起こしている。夢の中でどんなに悲嘆にくれておろおろしたことだろう。亡骸に向かって、あれもしてやればよかった、これも聞いてやればよかったと後悔ばかりがこみ上げて自分を責めて責めて。それにしてもどうしてあんな夢を見たのだろうか。伴侶への愛情というものが、それを表現する直接的な言葉を用いていないにもかかわらず切々と響いてくる。何より発想が斬新。そういえば私もそんな夢を見たことがあると読者を肯かせながら、それでいて誰もこれまでに詠むことのなかった世界。そんな「詩」の機微はいたるところに転がっているのだ。昨夜は音律本位でいえば「きぞ」と読むべきかもしれないが、日常感覚を重視するという意味でふつうに「さくや」と僕は読みたい。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)


October 01102009

 名月やうっかり情死したりする

                           中山美樹

年の中秋の名月はこの土曜日。東京のあちこちでお月見の会が催されるようである。仲秋の名月ならずとも、秋の月は水のように澄み切った夜空にこうこうと明るく、月を秋とした昔の人の心がしのばれる。今頃でも「情死」という言葉は生きているのだろうか。許されぬ恋、禁断の恋、成就できない恋は周囲の反対や世間という壁があってこその修羅。簡単に出会いや別れを繰り返す昨今の風潮にはちと不似合いな言葉に思える。それを逆手にとっての掲句の「うっかり」で、「情死」という重さが苦いおかしみを含んだ言葉に転化されている。ふたりで名月を見つめるうちに何となく気持ちがなだれこんで「死のうか」とうなずき合ってしまったのだろうか。霜田あゆ美の絵に素敵に彩られた句集は絵本のような明るさだけど、そこに盛り込まれた恋句はせつなく、淋しい味わいがある。「こいびとはすねてひかりになっている」「かなかなかな別れるときにくれるガム」『LOVERS』(2009)所収。(三宅やよい)


September 3092009

 池よりも低きに聞こゆ虫の声

                           源氏鶏太

の際、「鳴いている虫は何か?」と虫の種類に特にこだわる必要はあるまい。リーンリーンでもスイッチョンでもガチャガチャでもかまわない。通りかかった池のほとりの草むらで、まめに鳴いている虫の声にふと耳をかたむける。地中からわきあがってくるようなきれいな声が、あたかも静かな池の水底から聞こえてくるように感じられたのである。「池よりも低き」に想定して聞いたところに、この句の趣きがある。しかも「池」の水の連想からゆえに、虫の声が格別澄んできれいなものであるかのように思われる。たしかに虫の声が実際は足元からであるにしても、もっと低いところからわいてくるように感じられても不思議はない。詠われてみれば当たり前のことだが、ふと耳をかたむけた作者の細やかな感性が、静けさのなかに働いている。ただ漠然と「ああ、草むらで虫が鳴いているなあ」では、そこに俳句も詩も生まれてくる余地はない。鶏太には晩秋の句「障子洗ふ川面に夕日あかあかと」がある。また、久米正雄の虫の句には「われは守るわれの歩度なり虫の声」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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